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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.09.25
今日の言葉

とらえようのない心

盤珪禅師の語録のはじめの方にある話です。

あるお坊さんが、自分は生まれつき短気ですぐに腹が立って怒ってしまうと訴えました。

このお坊さんは、そのお師匠さんからも、お前は短気でいかん、なおさねばならないぞ、とお叱りを受けていたというのです。

自分自身もこの短気、すぐカッとなってしまう性格は悪いことだ、と思ってなおそうとするのですが、この短気はどうにもなおらないと言ってきたのでした。

盤珪禅師は皆仏心があると説きました。

このお坊さんにしても、仏心があるから短気であると気付くことができるし、それをなおそうと思うのです。

自分が平生短気であると気付いている心は、仏心の働きでしょうし、悪いことだと思うのも仏心があるからです。

そしてそれをなおそうという心そのものが仏心です。

このお坊さんが仏心を持っていることは間違いないのですが、そのことに本人は気付いていないのです。

そこでこのお坊さんは、私の短気は生まれつきなんですといったのでした。

盤珪禅師は、この生まれつきだといったのがお気に召さないのでした。

こんな勘違いをしてはいけないと、諄々と説いてくださるのです。

まず、盤珪禅師は、あなたは珍しいものを生まれつき持っているというのだが、生まれつきならば、ここに短気があるか、あるならば、今ここへ、その短気を出してみなさい、出したならば、その短気を直してやろうではないか、といったのです。

そう言われると、その短気は、今はないのです、禅師の前にいるときには出ないのです、何かの拍子にひょっと出るのですと答えました。

こう答えたので、禅師は、それならば短気は生まれつきではない、生まれつきであるならば、ここへ出せと言われたら出すこともできるでしょうが、何かの拍子にひょっと出るものならば、生まれつきではないと言いました。

そうして、盤珪禅師は、

「人々皆親のうみ附てたもったは、仏心ひとつで、よのものはひとつもうみ附はしませぬわひの」と言いました。

すばらしい言葉です。

一人一人、誰しも親から産んでもらったのは、仏心一つである。

我々が生まれた時は、尊い仏様の心一つを産み付けてもらっているのだ。

それ以外の短気だとか、憎しみ、ねたみというものは、親は何一つあなたに産み付けていないのだというのです。

このように相手の身の上において、仏心とはどのようなものかを直接に説いて聞かせるのが盤珪禅師の教化の方法でありました。

この話を読むと、盤珪禅師のすばらしさに感動すると共に、古い中国の祖師の姿を彷彿とさせられます。

達磨大師と、達磨大師の法を嗣いだ慧可神光との問答を思い起こすのです。

達磨大師が、お釈迦様から二十八代目の教えを嗣がれて、はるばる海をわたってインドから中国に見えました。

はじめ梁の国で、武帝に招かれて問答しますものの、うまく噛み合わずに、達磨大師は揚子江を渡って、魏の国にいたって、嵩山少林寺で壁に向かってひたすら坐禅していました。

そこに後に達磨大師の法を嗣ぐ慧可が訪ねてきました。

慧可は、あらゆる書物を読み尽くしてきたけれども、どうも納得がいかないという思いがあって、達磨大師という方がインドから見えたという話を聞いて入門を願ったのでした。

朝夕礼を尽くして教えを懇願しますが、達磨大師は振り向いてもくれません。

雪が降ってきて、とうとう膝が雪に埋まるくらいになりました。

達磨大師は、仏様方が伝えた教えは、長い長い間かけて、行じ難きを行じ、忍び難きを忍んでようやくできるものであって、あなたのように一時の軽はずみなこころで、すぐに慢心してしまうような気持ちで求めても無駄だといって退けました。

そう言われて慧可は、自らの左の腕を断ち切って達磨大師の前に差し出して、自らの決意を示したと説かれています。

そこではじめて達磨大師は、慧可を認めてくれたのでした。

慧可が、「私はまだ心が不安です。どうか安心させていただきたい」と願いました。

それに対して達磨大師は、「ではその心を出してみなさい。そしたらあなたのために安んじてあげよう」と言ったのでした。

その不安だという心をここに出してみなさいというのです。

そういわれて、慧可は、「いくら心を探してもついに得ることができません」と答えたのでした。

そして達磨大師は、「あなたの為に心を安んじてあげたぞ」と言ったのでした。

「いくら心を探してもついに得ることができません」という言葉のもとは、

「心を覓むるについに不可得なり」というのです。

平田精耕老師は『禅語事典』で、「このことばにはふたつの意味があります」と説かれます。

まず「『心不可得』といった場合、この心は凡夫の心をさします。喜怒哀楽に終始する心です。」
というのです。

それに対して、「『不可得心』は仏の心を表わしています」と説かれます。

そして、「心は喜んだり、悲しんだりしていろいろに展開するけれど、その元のところの心は、同じ心が喜んだり、悲しんだりしているだけです。」と解説されています。

喜怒哀楽の感情と、その根源の仏心との関係について、古来いろんな譬えが用いられます。

波と水の喩えが分かりやすいように思います。

喜怒哀楽の感情は、波打ち際の波であります。

その根源となる仏の心は、海そのものであり、水であります。

盤珪禅師は、本来仏心ひとつだと説かれましたが、それが外のものに心が惹かれて、気に入らないものに腹を立てて、怒りを起こし、気に入ったものを欲しいと思って貪欲を起こすというのです。

水に風が吹いて波を起こすようなものです。

小さな波ならまだしも、津波のようなものになると、町を襲い、人の命も奪います。
怒りなどもそうです。

大事なことは、この根源の心、仏心に目覚めることなのです。

慧可が、心はとらえようがありませんと言ったのは、根源の心そのものなのです。

とらえようのない心、それはどこまでも広く深く、あたたかくて、すべてを包む仏の心、仏心なのであります。

 
横田南嶺

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