千里同風
残暑厳しいとはいえ、朝夕秋の風を感じるこの頃であります。
先日とある出版社から、取材を受けました。
いろんなことを聞かれましたが、「keep distance」と言われる時代に、どうやって人とのつながり、関係を築いたらいいのかという質問がありました。
人と会えない、一緒に食事できない、今の時代はいろいろのことがございます。
そこで、オンラインということになるのでしょう。
しかし、オンラインでは十分に理解しあえないという一面もあります。
取材を終えた後でしたが、「千里同風」という言葉を思い起こしました。
これは、雪峰禅師(822~908)と玄沙禅師(835~908)とのお話であります。
玄沙禅師は、もと漁師であったといいます。
毎日父と共に漁に出ていたのでした。
父が水中に落ちてしまったのを、救おうとしたものの救うことができませんでした。
そこで無常を感じて出家したというのであります。
既に三十歳であったと伝えられています。
その様な経歴故に、字も読めなかったという説もあるほどです。
後に雪峰禅師について修行しますが、師匠の雪峰禅師も一目置くほどの、熱心な修行ぶりでありました。
玄沙禅師は、師備という名であったので、備頭陀という名で呼ばれたほどでありました。
頭陀というのは、もとは「ふるい落とす、はらい除く」という意です。そこから煩悩の汚れをふるい落とし、衣食住についての貪りや欲望を払い捨てて清らかに仏道修行に励むことを言います。
熱心に頭陀行に励んでいたことがよく分かる呼び名であります。
ある時に、師の雪峰禅師から、諸方を行脚してくるように勧められました。
雪峰禅師は、諸方を行脚して、洞山和尚や塩官禅師や德山禅師などの優れた禅僧を歴参された方でしたので、ご自身の体験からも、行脚を勧めたのでありましょう。
何度も勧められて、ようやく旅に出ました。
旅に出て、道の石ころにけつまずいて、忽然と大悟したといわれます。
その折りに「達磨東土に来たらず、二祖西天に往かず」と言われました。
達磨大師は、インドからはるばる中国に見えたと言われていますが、なにも達磨大師は、東にも来ていないし、二祖慧可大師もインドにゆくことはないというのです。
真理を体得するのには、どこにも出かけてゆく必要はないということに気がついたのでした。
そしてそのまま雪峰禅師のもとに帰りました。
行脚するといって出かけた玄沙禅師が、すぐに帰って来たので、不審に思った雪峰禅師が子細を聞きました。
玄沙禅師は自身の体験の話をすると、雪峰禅師も大いにその高い心境を認めたのでした。
後に寺に住してから、修行僧達を指導されていました。
ある僧が「私はまだ入門したばかりで、どのように修行したらいいか分かりません。どこから手をつけたらいいでしょうか」と聞くと、玄沙禅師はその僧に「川のせせらぎが聞こえるか」と問いました。
「聞こえます」と答える僧に、玄沙禅師は「そこから入れ」と答えました。
石にけつまずいて、痛いというものはなにか、せせらぎの音を聞くのは何ものか、禅は、ここを明らかにするものです。
わかりやすく言えば、生きていればこそ、命あればこそ、痛いと感じるし、せせらぎの音も聞こえます。
では、そのいのちなるものは、どこにあるのかというと、耳にあるわけでなし、頭にあるわけでなし、強いて言えば、この広い天地いっぱいに満ちあふれているとしかいいようのないものであります。
空間的には、この天地に充満し、時間的には、過去現在未来を貫いています。
遠い過去から、遠い未来に到るまで、生き通しにいきているいのちそのものとでも申しましょうか。
盤珪禅師が不生の仏心と呼んだものでもあります。
古来の祖師方もみなこのことを体得し、それぞれの言葉で伝えようとされたのでした。
ある時に、玄沙禅師は、雪峰禅師のもとへ、一通の手紙を修行僧に届けさせました。
雪峰禅師が、久々の玄沙禅師からの書状を開いてみると、何と中身は白紙だったのでした。
届けてくれた僧に、「これはどういうわけなのか」と問うても、僧は答えられません。
雪峰禅師は、白紙の手紙を取りあげて、「分からないのか、君子は千里同風だ」と言ったのでした。
「千里同風」とは、たとえ千里離れた土地であっても、同じ風が吹いているという意味です。
玄沙禅師と雪峰禅師、たとえどれほど離れていても、心と心は通じ合っていることを表しています。
白紙の手紙を見事に読み解かれ、師匠と弟子の心が一つになっていることがよく分かり、何とも奥ゆかしい逸話であります。
電話もメールも無い時代には、遠く離れたところにいても、夜にお月様を眺めては、ああ、あの人も今同じ月を見ているのだと、心を通わせ合ったものでありました。
今ここに吹いている風も、あの人がいるところと通い合っていると感じることもできます。
遠く離れていても、心は通じ合うことを示している言葉が「千里同風」であります。
今の時期、秋の風が吹き始めると、この言葉を思い起こします。
オンラインでなくてもつながりあう世界があることをこの言葉から思うのであります。
横田南嶺