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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.08.10
今日の言葉

あほうになる

少し以前になりますが、『日本講演新聞』7月19日号の社説に、水谷もりひとさんが興味深いことを書かれていました。

小説『花は咲けども噺(はな)せども』(PHP文芸文庫)の主人公である山水亭錦之助の話です。

錦之助というのは、一流私立大学を卒業後、大手アパレルメーカーに就職したのですが、学生時代、落語研究会に所属していて、その落語家になる夢を捨てきれず、脱サラし、故立川談志師匠の「立川イズム」を継承する山水亭錦生師匠(さんすいてい・きんのしょう)に弟子入りしたというのです。

記事によると「落語家の階級は、「見習い」から始まって「前座」「二つ目」、そして「真打ち」。普通は5年ほどの修業で「二つ目」に昇進するのだが、錦之助の場合、7年の月日を重ねた。

その後、二児の父親になったが、錦之助はまだ「二つ目」でくすぶっていた。生まれたばかりの次男のミルク代を稼ぐために、やりたくもない仕事を受けていた。それが地方のラジオ番組『突撃どこでも落語』だった。

ある時は神社の境内で、ある時は銭湯のサウナ風呂の中で、ある時は区民祭りの特設ステージで。声が掛かればどこでも行った。

落語を聴く姿勢のない人たちの前で落語を演(や)ることほど屈辱的なことはない。」

というのであります。

聴きたい人の前で話をするのはやりやすいものでありますし、やりがいもあるものですが、そうでない場合というのは苦しいものです。

社説には、

「そんな錦之助を支え続けてきたのは、学生時代に衝撃を受けた談志師匠の「落語の定義」だった。

「人間はすごい。同時に人間というのはどうしようもねぇ。でも人間っていい」、この感覚を談志は「人間の業(ごう)の肯定」と言った。

たとえば、「酒が人間をダメにするんじゃない。人間というのは元々ダメなものなんだということを酒が教えているんだ」と。」

という話です。

人間はいろいろあるのです。

いろいろあってこそ人間なのでしょう。

『花は咲けども噺せども』の著者は落語家の立川談慶さんだそうです。

社説の最後には、談志師匠がよく色紙に書いていたという名言が書かれていました。

「笑われるまでにピエロはさんざん泣き」

という記事を読んで、この本を読んでみようと思ったのでした。

そうすると、読売新聞にも立川談慶さんの本『花は咲けども噺せども』が紹介されていました。

「一瞬とは言え落語家を辞めシナリオライターになろうと本気で考えた」こともあると書かれていました。

それが、「シナリオライターになろうとした経験も、執筆に生かされた。

「伏線と回収という発想が形として把握できるようになったのは、シナリオのおかげ」と話す。

順調ではなかった日々は伏線となり、この小説が回収している。」

というのであります。

笑われるようになるまでには、いろいろのご苦労があるのだと思いました。

宋代の禅僧白雲守端禅師が、楊岐禅師について修行していた頃、禅問答しても、師の楊岐禅師は、笑うのみでありました。

これこそという答えをもっていっても笑われて終わりなので、若き白雲禅師は悩み苦しみました。

そんなある時に、楊岐禅師は、白雲禅師に言いました。

「あなたの修行は鬼遣らいにも劣るな」と。

鬼遣らいとは追儺ともいって、年末に鬼を祓う行事です。

どういうことかと問う白雲禅師に対して、楊岐禅師は、かれらは人に笑われることを喜んでいるし、あなたは人に笑われることを恐れていると言ったのでした。

芸人などは笑われて喜びます。

笑われて不安になるようではまだまだということでしょう。

笑われて平気になれば大したものであります。

黒住宗忠の教えに、「阿呆になれ」というのがあります。

毎月送っていただいている黒住教の方の教化誌に、

「教組神は「阿呆になれ」と仰せられた。功は人に譲り、労は自ら取るという人……これも尊い阿呆でしょう。

さらに進んで、尽くすだけは尽くし、真心を持ってことに当たり、この上は人力の及ばぬところと、天に任せて少しも心配せず、悠々と人生に処していく、ここにも極めて尊い宗教的な阿呆さがある」

と書かれいてました。

禅の修行では、よく「バカになれ」と言われるものであります。

阿呆とバカとはどう違うのかよく分かりませんが、相通じるものを感じます。

山田無文老師の言葉を思い起こします。

「私は毎日起きますと輝くお日様に手を合わせます、月が残っていれば優しいお月様にも手を合わせます。見えない空気にも手を合わせます。顔を洗う水にも手を合わせます。お粥の中の米粒にも沢庵にも手を合わせます。お前は何という馬鹿者だ、大陽や月を拝んでどうするのか、空気や水どころか沢庵にまで手を合わすなんて、とお笑いになる方がいるかも知れませんが、わたしはそういう馬鹿でありたいのです、阿呆で結構なのです。それでも私は拝まずにはいられないのです、手を合わさずにはいられないのです」

というのであります。

これは無文老師のどの本にあったか、覚えていないのですが、いい言葉だ、これこそ禅の修行の目指す究極のところだと思って修行時代にメモをしていたものです。

半紙に書いて目につくところに張っておいたりしました。

阿呆になる、難しいことでありますが、目指したいものであります。

 
横田南嶺

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