仏心があるとは有り難いことだ
大乗仏教ではよく使われる言葉です。
しかし、この教えは、仏教で古くからある教えではありません。
『涅槃経』で説かれるようになった教えであります。
涅槃経には、二種類あって、パーリ語の古い経典と、サンスクリットで伝わる大乗の経典とがございます。
田上太秀先生の『仏性とはなにか 『涅槃経』を説き明かす』には、この大乗の涅槃経の教えについて説かれています。
田上先生は、古い涅槃経と、大乗の涅槃経との違いを次のように明確に示してくれています。
「思想の上で大きな違いを見ると、まず、「原始涅槃経」では諸行無常、一切行苦、諸法無我という、不滅な、常住な実体はないと説法しているのに対して、「大乗涅槃経」では常・楽・我・浄という世間を超えた常住で不滅の仏性があるという、まったく反する考えを打ち出した点で両者は異なる。」
という通り、永遠不滅の仏性があると説いたのがこの『涅槃経』の特徴なのです。
しかし、はじめこの仏性が説かれた時には、仏性があるからといって、それですでにブッダの覚りを得ているというわけではないのです。
煩悩に覆われているから仏性を見ることも知ることもできないというのです。
つまりは、煩悩を取り除く努力をしなければ仏性をみることはできないのです。
仏性はある、しかし煩悩に覆われてみえない、そこで修行が必要になる、修行によって仏性を自覚できるという図式が成り立つのです。
『涅槃経』には、戒を厳しく守らなければ、仏性を知ることができないと説かれています。
「一切衆生にみな仏性があるといっても、かならず戒を守ることに因って、その後で見ることができるのである」というのです。
「一切衆生仏性有りと雖も、持戒に因って然る後に乃ち見んことを要す」というのです。
では仏性はどこにあるのかというと、
『涅槃経』には、
「たとえば樹木の神は樹木に住むと言う時、枝に住むとか、節に住むとか、茎に住むとか、葉に住むとかいわない。〈どこに〉と決まったところはないが、住むところがないとはいえない。」
と説かれていて、木のどの部分に有るかは説いていないのですが、木に宿るといって場所を限定していません。
これと同じで五蘊中に仏性があるといっても、五蘊の色・受・想・行・識のどの部分に宿るとはいわない。ただ五蘊に仏性は内在すると説いています。
五蘊というのは、色・受・想・行・識であります。
色というのは、目鼻耳の感覚器官を具えたは肉体であります。
受は感受作用です、目に触れたもの、耳に聞こえたものに、快不快を感じます。快と苦を感じるのは、生命の最も根源的な感覚です。
想は、想念です。感じた事に対して、喜怒の思いを起こします。快には喜び、不快には怒りを思います。
行は、意志です。快不快を感じたことに対して、心地よいものを更に欲したり、不快なものを退けようとしたり、愛憎の強い意志を形成するはたらきです。
識は認識です。その結果、見たり聞いたりしたものを、真偽、善悪、美醜という判断を下します。
そうして外の世界をすべて色づけして見ているのであります。
五蘊の中にあるといっても場所を特定できないということを、経典には、「空中の鳥跡」を譬えにしています。
「地上から空を仰ぎ見た時に、人は鳥が飛んだ跡を見ることができない。人びとには天眼がないからだ。彼らは煩悩に埋もれているので、自身に如来性があることに気付かない。」というのです。
臨済禅師は、お説法で、
「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」。
と説かれました。
訳しますと、
師は説法して言った、
「この肉体には真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ看よ!さあ看よ!」
という意味です。
赤肉団というのは身体のことです。はだかの身のことです。
ここのところ、『祖堂集』巻一九、『宗鏡録』巻九八、『景德伝灯録』巻二八などの早い時期の資料では、「五蘊身田内」と書かれているのです。
五蘊の中に仏性があるというのと同じような意味として説かれたと想像します。
臨済禅師は、面門から出入すると説いていますが、これは六根のはたらきを表しています。
無位の真人というのは、心のことだといっても同じことです。
臨済禅師は、こころというものは、眼で見るというはたらきをし、耳で聞くというはたらきをし、鼻でにおいを嗅ぎ、舌で味わい、皮膚で感じて、意識であれこれお思うという、六つの感覚器官を通してはたらいていると説いています。
この身体に、何の位階にも汚されない素晴らしい真人がある、仏性があるという教えなのです。
そのことを見届けよと臨済禅師は説かれたのでした。
盤珪禅師は、人は誰しも生まれながらに不生の仏心を具えているとくり返し説かれました。
盤珪禅師の偉大なることは、このくり返しでありました。
臨済禅師の「無位の真人」は、あまりくり返されることはありませんでした。
「真人」なるものを実体視されることを嫌ったとも言われます。
それも分かることですが、くり返しというのも大きな力をもっています。
先日もあるご夫人からお手紙を頂戴しました。
不生の仏心といってもよく分からなかったけれども、何度もYouTubeの法話を聞いて、『盤珪語録を読む』の本を読んで、仏心のことをくり返し聞いて読んでいると、自分にもなにか仏心があるような、心がやさしくなるように感じるというのです。
今までは、ついカッとなってキツい言葉をかけていたのが、こんなことを言ってはいけないと自然とそんな心が沸いてくるようになったと書かれています。
無理せずに自然と沸いてくるのが不思議だと書かれていました。
くり返しくり返し、仏心があると聞いていると、自然とその仏心がはたらいてくるのだと思いました。
朝比奈宗源老師は言われています、
「仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」と。
横田南嶺