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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.05.19
今日の言葉

誰にでも仏心はある

毎月読んでいる盤珪禅師の語録には、「人人皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる」ということがくり返し説かれています。

みな人は仏心という、仏さまの心を持っているというのです。

しかも、それを盤珪禅師は、不生であると説かれました。

生じたものではないということで、修行等のよって作られるものではないのです。

ずっとはじめからあるものであり、滅することもないものだというのです。

生きとし生けるものは、みな仏さまの心をもっているという教えなのであります。

これを仏教の専門語では、「如来蔵」と申します。

如来を内に宿すという教えであります。

こういう教えは、禅ではよく説かれるので、仏教の教えとしてあたりまえのように受けとめられるかもしれませんが、実はこれは大乗仏教になって説かれた教えなのでります。

このたび春秋社から刊行された『内在する仏 如来蔵』という鈴木隆泰先生の本には、どのようにして、この如来蔵思想が現れてきたのかがよく説かれていて、分かりやすいのであります。

誰しもが仏さまの心を持っていながら、そのことに気がついていない様子を、様々な譬えで説かれています。

鈴木先生の著書から、一部を引用させていただきます。

「仏性は一切衆生に存在する(一切衆生悉有仏性)が、それは諸々の煩悩に覆われていて、自分の中に存在しているにもかかわらず、衆生はそれを見ることができないのである。

たとえばある村の貧しい者の家に、無尽蔵の金の鉱脈があったとしよう。

そこには一人の婦人が住んでいたが、自分の家の地下に金の鉱脈があるとは知らず、貧しい生活を送っていた。

そこで、人を導く術に長けたある人がその婦人に、婦人よ、こちらに来なさい。私はあなたに報酬を与えるから、家事をやっておくれ、と言うと、彼女は”もしあなたが私の息子に宝を示してくれるなら、私は参りましょう」と応えたところ、(中略)
彼は お前の家には金の鉱脈があるにもかかわらず、お前は知らないのだ。

(中略)、と言って、(中略)そこで彼は家の地下から金の鉱脈を取り出して彼女に与えたのである。

彼女はそれを見て驚嘆し、彼に帰依をした。

それと同様に、善男子よ、如来蔵(アートマン)は一切衆生に存在するのだが、ただ見ることができないだけなのである。

貧しい女に金の鉱脈が存在していたように。」(同書81から82ページ)

というものなのであります。

ほかにも『如来蔵経』には、九つの譬えで示されています。

色あせた蓮華の蕚(うてな)に隠れた如来のようなものである。

蜂の群れに取り囲まれた蜜のようなものである。

籾の中の穀物のようなものである。外皮に覆われている精米のことです。

不浄な汚物の溜めに落ちた金のようなものである。金は幾百年経ってもその性質を失うことはなく、眼のある者が見つけて探し出すのです。

種子の中の芽のようなものである。種子の中の芽は、大地に植えられ水などを得ると大樹に成長するのです。

悪臭を放つ弊衣に包まれた仏像のようなものである。煩悩の汚れに覆われているだけなのです。

貧しい女性が胎中に王子を宿しているようなものである。

泥の鋳型に覆われた金の仏像のようなものである。

などという譬えで、説かれています。

心は本来光り輝いているのだけれども、一時的で偶発的な煩悩によって汚されているという教えなのです。

『華厳経』には、「どんな衆生でも、衆生たちの内で、そこに如来の智が遍く滲透していないものは一人もいない。

それにもかかわらず、想念にとらわれているので、如来の智に気づかない。

しかし、想念のとらわれから解脱するならば、一切智の智、自存者(如来)の智が垢れに付着されずに顕れ出るであろう。」

という教えがあって、そういうものが、この如来蔵という、すべてのものには仏さまの心が具わっているという教えになっていったのでした。

こういう教えが基本になって、禅があるのであります。

もっとも、すでに仏さまの心が具わっているのであれば、何をしてもいいのではないかという暴論も出て来ます。

それに対して、どのように反論するのかも、この本では用例が説かれていて参考になります。

朝比奈宗源老師も、

「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。

これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。

掘れば出ると思うから骨も折れる。

だから我々の修行もそれと同じだ。

仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。

そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。

道具もいる。努力もいる。坐禅も亦然りだ。やればキッと出来る。」

と説いてくださっているのです。

ただ仏心があるというだけでは駄目であって、それをしっかり坐禅して確かめることが大切なのです。

確かめたなら、その仏心をはたらかせてゆくことです。

仏心のはたらきは、慈悲にほかならないのです。

仏心の具わっていることを信じて坐禅して、仏心を自覚して、仏心をはたらかせて慈悲を行じるのが禅の教えといえます。

 
横田南嶺

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