親身になる
円覚寺境内の最奥にある黄梅院の掲示板には
はや五月
無常迅速!
この仏意を
体で知るようになった
花咲き
花散り
はや五月
という坂村真民先生の詩を書きました。
コロナ、コロナといううちに、早くも五月なのであります。
円覚寺の総門下の掲示板には
これからだ
みどりの風よ
これからだ
さえずる鳥よ
これからだ
みちくる潮よ
これからだ
もえでる葦よ
これからだ
わたしの生よ
これからだ
という真民詩を書きました。
五月、風薫る季節、これからだと思うものの、新型コロナウイルスの為に足止めをくらっている思いもします。
それでも、やはり、これからだ、これからだと歩を進めてゆかねばなりません。
四月二十七日の毎日新聞に、香山リカ先生が、『香山リカのココロの万華鏡』というコラム記事を書いていました。
「誰かに『親身』になれるか」という題でありました。
香山先生の診察室を訪れた方の話です。
めまいが気になって大きな病院で診てもらったのだそうです。
大病院で色々検査をしたけど異常は無かったというのです。
それならよかったと思いますが、本人は実に暗い顔をなさっていたのでした。
どうしてかと聞くと、病院の先生が、最新の検査をあれこれしてくれたのですが、「なんでもないですよ」の一言で、その方の話を「親身になって」聞いてくれる感じがしなかったというのであります。
長年めまいに苦しんできたその方の辛さを分かってくれなかったので、暗い顔をしていたのでした。
親身になるという言葉を香山先生は久しぶりに聞いたと書かれていました。
香山先生は「親身」を辞書で調べると二つの意味があるというのです。
ひとつは、「血筋などで近しくつながっている人」、つまり血縁や家族のこと。
もうひとつは、「肉身であるかのように、こまやかな心づかいをすること」というのです。
この後者の意味で「親身になる」ことが大切だというのであります。
「怨親平等」という言葉があります。
これは、円覚寺開創の精神でもあります。
敵も味方も区別せずにおなじように供養するという心であります。
この「怨親平等」という言葉も、元来は『華厳経』などにあって、身内も他人も平等に接するという意味であります。
他人であっても、肉身であるかのようにこまやかな心づかいをすることであります。
「一視同仁」という「親疎の差別をせず、すべての人を平等に見て仁愛を施すこと」という意味の言葉もあります。
禅の修行では、こういう心を大切にするのです。
そうかといって、こういう心を持つように努力したりするのではなく、自らが無になることによって、このような心が顕わになると説くのであります。
教育学者であり、長年相国寺僧堂で参禅修行をされた片岡仁志先生の著『禅と教育』には、次のように説かれています。
「絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。
すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。
これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。
……感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。
その繋がりが、実際は愛というものの根本です。
われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。
自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。
他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。
絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。」
というのであります。
西田幾多郎先生は、『善の研究』の中で、
「我々が自己を棄てて純客観的すなわち無私となればなるほど愛は大きくなり深くなる。
親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。
仏陀の愛は禽獣草木にまで及んだのである。」
と説かれています。
禅の無になる修行は、このように一切のものに親身になって、慈悲仁愛を施してゆくものであります。
それが証拠に、一所懸命に坐って、坐禅のあと庭に出てみると、草や花に対して親身になる感覚が生まれてくるものです。
草花にも声をかけてあげたくなるような思いです。
ブッダは、
「あたかも母が己が独り子を命を賭けても守るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。(スッタニパータ)」と説かれたのでした。
ブッダが説かれたようになるには、たいへんなことでありますが、せめて、身近に困っている人がいたならば、まずは親身になってお話を聴いてあげることを心がけたいと思います。
横田南嶺