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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.02.18
今日の言葉

穏やかな気持ち

知人から、毎月個人詩誌を送っていただいています。

その方は、いつも円覚寺の日曜説教などにもお越し下さっていたご夫人でいらっしゃいます。

いただいたお手紙には、もう円覚寺に行かれなくなって一年が経つと書かれていました。

たしかに、その通りで、思い起こせば昨年の二月に、日曜説教を行って以来、オンラインでの法話になったのでした。

もう一年になるのかと改めて思います。

その方も、動画をご覧になってくださっているのですが、やはり直接お目にかかる日を待ちたいと書かれていました。

それはこちらもその通りで、直接お目にかかってお話のできる日を待つ思いであります。

坂村真民先生が、『詩国』という個人詩誌を出されていたましので、それと同じように、一枚の紙の裏表に、詩と写真とを載せてくださっています。

もうこれで十三号になります。

毎月楽しみに拝見しています。

今号では、「穏やかな気持ち」という詩に心ひかれました。

きれいな青空に、白い雲がたなびく写真が添えられています。

「人はどういう時に穏やかな気持ちになるのだろう」と問いかけておいて、

大空を仰いだとき

大きな木を見上げたとき

光る川を見たとき

浮かぶ雲を眺めているとき

日の光に優しさを感じたとき

おいしいお茶をいただいているとき

等をあげられています。

他にどんな時に穏やかな気持ちになるだろうかと考えてみました。

花が咲いているのを見た時、

それも枝振りを整えて活けられた花よりも、野に咲く花がいいと思います。

赤ん坊を見る時、なんとなく穏やかな気持ちになるものです。

人見知りをするようになってからよりも、まだそんな意識もない頃の子どもの表情を見ていると穏やかな気持ちになります。

子犬や子猫を見る時、これも穏やかな気持ちになれます。

これらを書き出してみて気がついたのは、穏やかな気持ちになれるものというのは、皆無分別であることです。

花が咲くのも無心、枝を整えようなどという計らいのない無分別がいいのです。

赤ん坊も、人見知りをするような分別意識のない無分別であります。

子犬も子猫も全く無心そのもの、無分別です。

無分別に触れると心が穏やかになるのだと気がつきました。

なぜかというと、無分別こそがお互いのふるさとなのだと思うのです。

無分別に触れた時に、人は穏やかな気持ちになり、笑顔になれるのだと思います。

笑うという言葉の語源について、先日読売新聞の編集手帳に書かれていました。

民俗学者の柳田国男先生の説だそうです。
「笑う」は「割る」から派生した言葉だそうです。

根っこに、固く結んだものが割れる、ほころぶ意味が潜むというのです。

だから顔をほころばせることを笑うというのです。

花が咲くことも、笑うと言います。

つぼみが割れて開くことになるからでしょう。

分別意識に固まっている心が、割れて開かれる時に、笑うのでありましょう。

善だ悪だ、是だ非だと分別して凝り固まっているのがお互いの心です。

それが割れて開かれて、無分別の広い世界にふれると、微笑みが出るのでしょう。

ですから、笑うのは無分別であります。

無分別というと、山田無文老師の「無用の長物」と題したコラム記事を思い起こします。

何に書かれていたものなのかは分からないコラムですが、西澤真美子さんから教わったものです。

「人生に夜のあることはうれしいことである。

どんなに仕事の好きな人も、夜は仕事を忘れて眠る。

どんなに金もうけの好きな人も、夜はその貪欲をわすれて眠る。

どんなに学問の好きな人も、夜は本を書棚におさめて眠る。

生命をかけた戦場の勇士も、夜は銃をまくらにしてしばしをまどろむであろう。

宗教の世界も、夜のようなものではなかろうか。

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、善き者にも悪しき者にも、神は同じく雨を降らせたもう。

世の成功者も、ここではその誇りを忘れて平凡な人の子となり、世の敗残者も、ここではその失意を忘れて、神のふところにいだかれる。

宗教の世界とは、夜のごとく争いと裁きも憂いのないやすらぎの世界である。

宿題宿題で先生には鞭うたれる。

勉強勉強で家庭では尻をたたかれる。

友達は見向きもしてくれない。

今ごろの高校生には、心の安まる夜がないようだ。

そこで一朝つまづくと、とりかえしのつかんことにもなろう。

大事な人生に、夜が半分もあるのは、無駄のようである。

忙しい今の世の中に、静かにすわる宗教などは無用の長物とも思われよう。

しかしその無駄が決して無駄ではないことを忘れてはなるまい」

というものです。

ここで説かれている夜の世界というのが、「無分別」の世界です。

もっとも穏やかな気持ちになれる世界なのです。

「不要不急」という言葉によって、「無用の長物」が排斥されたり、「無分別」が避けられたりして、分別の世界ばかりになってしまうと、穏やかな気持ちから遠ざかってしまいます。

夜は何もかも忘れて眠る、時には静かに坐ってみる、空を見上げて微笑む、野に咲く花をみて微笑む、そんな穏やかな気持ちになる時を大切したいものです。

 
横田南嶺

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