小我の殻を突き破る
そして小我の殻を突き破るためには、私たちは私たちをその殻のなかにとじこめている、どろどろとこびりついた汚濁を自覚し、それを素直に神さまの前に投げださなければならないのです。」
これは、井上洋治神父の『イエスのまなざし』に出てくる言葉です。
キリスト教と仏教とは、異なる宗教であることは言うまでもありません。
キリスト教における神の概念と、仏教の仏の概念は、全く異なるものです。
とりわけ、学問の世界というのは、どこが違うのか、その違いを分析して精査することに重きをおきます。
それが、学問の特性でもあるのでしょう。
しかし、私のように学問を専門に学ぶものでもない、実践をしてゆこうとしている者にとっては、その違いを明らかにすることよりも、共通しているものは何かということに関心が強くあります。
キリスト教と仏教と異なる宗教なのは当然ですが、どちらも世界のすぐれた宗教であることは間違いないのです。
どちらも長い時代を経て、世界の多くの人々の安心を与えてきたものです。
その素晴らしい二つの宗教に共通してあるものを探せば、仏教を学ぶ者にはより仏教の素晴らしさ、そしてキリスト教を学ぶ者にはキリスト教の素晴らしさがよりはっきりするのではないかと思うのです。
坂村真民先生は、思索ノートのなかに
「仏の教えを蘇生させるために、わたしはキリストの力を借りる、そのために聖書を読むのである。
仏教とキリスト教とは対立するものではない」
と書かれています。
これは、坂村真民記念館の西澤孝一館長から送っていただいた『風 プネウマ』で知りました。
また真民先生は、
「……仏教もキリスト教も、イスラム教も、その他の宗教も皆、実体は一つであり、異なった名前で言っているだけであって、何も相争うことはないのである。そのことがはっきり体得できれば、もっと世界は美しく平和になるであろう」
とも述べていらっしゃいます。
こちらも西澤館長から送っていただいた冊子で学びました。
真民先生が敬慕されていた井上洋治神父もまた、
「お互いがお互いの信仰を尊敬していれば、そんなにどこが似ているとか違うとかいうことをせわしくやらなくても。ひたすら謙虚にそれぞれが自分の道を登れば一介のプレーヤーとしてそれでいいような気がするんです」(遺稿集『南無アッパ』の祈り)
と述べておられるとのことです。
井上神父は、一遍上人のことに詳しくいらっしゃって、真民先生が思索ノートに
「この司祭がこんなに一遍を知り、その語録を読んでいられるとは知らなかった、日本のお坊さんより、よく読んでいられることを知り感動した」
と書かれているそうです。
井上神父の著書『イエスのまなざし』にも次の言葉があります。
「私の好きな時宗の創始者一遍上人の言葉に次のようなものがある。
「居住を風雲に任せ、身命を山野に捨てる」。
この言葉を口ずさむとき、私は聖書の次の一節を思い出すのである。
「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
……風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。
霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネによる福音書三章ハー八節)
この訳で霊と風と訳されている原語は同じプネウマというギリシャ語であって、その他にプネウマは息という意味もある。
居住を風雲に任せるというときの風は、物理的な風ではなく、それに象徴されている霊の風なのであって、その点で居住を風に任せるということは、居住を霊の風、天の風に任せるということであり、生きとし生けるものの存在の根底を吹きぬけている聖霊の息吹きに己れの全存在を任せきるということに他ならない」
という文章であります。
文章は少々難しいのですが、私には、この「聖霊の息吹に己れの全存在を任せきる」という表現をみると、一遍上人の、
「よろず生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずということなし」
という言葉を思い起こします。
また『イエスのまなざし』を読んでいると、井上神父は次のような興味深い考察もなされています。
「中村元氏監修の『新・仏教辞典』によれば、「悲」という言葉は、もともとサンスクリット語でカルナーといい、人生苦に呻き声をあげることを意味し、その呻き声をあげた者のみが同じ苦しむ者に対して持てる同苦の思いやりであると言う」
というのです。
中村元先生の辞書で勉強しておられたとは驚きました。
そして、この仏教の慈悲と、キリスト教の愛について、次のようの考察されています。
「イェスの時代には、愛という日本語に相当する言葉として、エロス、フィリア、アガペーという三種類のギリシャ語が使われている」
というのです。
井上神父によれば、「エロス」というのは、「美と価値を追求する情熱愛」だそうです。
そして「互いに共通の価値を互いの善のために追求する友愛」というのが、「フィリア」にあたるのだそうです。
それにたいして、「イエスの弟子のパウロやヨハネが師イエスの伝えんとしている愛を表現するのに、当時殆ど使用されていなかったアガペーという言葉を使用した」のだそうです。
井上神父は、
「先の「悲」という言葉の意味を考え合わせて、イエスの示そうとした「共に」の愛を、私は悲愛という言葉でよんでみたいと思う。
悲愛というものの特質が、上から下へではなくて、共に泣き共に喜び、共に重荷を負い合うということ」
と解釈されています。
井上神父には、この「上から下へではなくて、共に泣き共に喜び、共に重荷を負い合う」姿と、一遍上人の素足で念仏を弘められた姿とを重ね合わせたのだと思います。
もうひとつ、『キリストのまなざし』から井上神父の言葉を紹介します。
「己を無にすることによって、小さな自分の我というものに死ぬことによってはじめて真の自己を獲得することができるのだ」
という言葉です。
この言葉だけ見ると、禅の書物にあっても何等違和感のないものです。
「己を無にすること、我に死ぬことによって、自己の存在の根拠たる神の愛と力が初めて完全に働くことにより真の自己が完成される
ーイエスのアガペー(悲愛)の生涯もまたこの真理を証しているのである」
小我の殻を破って、大いなる慈悲に目覚めることは、共通していると言えます。
私たちが学ぶべきは、ここであります。
横田南嶺