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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.01.24
今日の言葉

椎尾弁匡僧正の講説

椎尾弁匡僧正の本を、私は中学から高校生の頃によく読んでいました。

あの頃大きな影響を受けた方のお一人であります。

仏教というのは、こんなに素晴らしい教えなのかと、深く感銘を受けたのでした。

といっても椎尾弁匡僧正の本などは、一般に容易に手に入るものではなく、図書館の書庫の中で探し出して、ひたすら読んでいたのでした。

たしか、貸し出しのできない書架にあったと思います。

それで、今でも何冊か手元に椎尾弁匡僧正の本を置いています。

昨日の小欄で、少し阿弥陀さまについて紹介したので、ついでに僧正の本を読んでいました。

『仏教の要領』には、お釈迦様の悟りについて次のように説かれています。

「大自然は無量の条件が和合する上に成立している。

この身も、この心も、わが所得するものではない。

自己の心身は大自然の和合の上に現れている。

茲に至って、真の自然人となり、一切の束縛を脱することが出来る。

既にここにあっては、大自然の総ゆる力に順って活動することができる。

それは自己が動くのでなく、天地の力が動くのである。

この天地の力こそ、進んで止まざる大生命である。

斯かる心境に達するとき、両手はおのずから合掌されて、われは天地の恵みなり、われは天地の生命であるとの躍動が湧く。

そこには帰依、合掌、廓然大悟があるのみとなる」

と説かれています。

わが身もわが心も、わが所有ではないと、大自然の和合の上に現れていると言葉には大きな感銘を受けたことを覚えています。中学の頃でした。

学校では決して教わることのない、壮大で崇高な真理に触れたという思いでした。

一切の束縛を脱して、真の自然人となって、大自然の力に順って活動できるというのは、どのようなことなのだろうかと考えていました。

こんな素晴らしい世界が開かれるのが仏教なのだと感動したのでした。

更に、

お釈迦様の涅槃について、

「この涅槃とは大変にむつかしい言葉で、ふき消すこと、ふき消されてある状態ということです。

即ち人間の無明煩悩を吹き消すということです。

それによって、寂静たる平安と自由とを得ることとなります。

私たちは無始からの無明煩悩にわざわいされて、諸行無常と諸法無我の真理を受けとらずにおります。

天地人生においては一物といえども、一つの出来ごとといえども、単独に独自の力で出来ておるものはありませんでした。

只今の私の一息一息は、縦には無始の始めから永遠の将来に向かうその一点においてありますし、空間的には無数の尊い縁のお育てを受けて始めて生まれ出ているのです。

この私は一瞬一刻、大きな縁のお育ての上に生かされて生きておるのでした。

これが現実のありのままの人間のすがたであります。

このように受けとるとき、始めて只今の自分の一息一息の尊さ、人間の生かされて生きておることの尊さがしみじみとわかって来ます。

そうなりますと、涅槃寂静、即ち、自分だけの力で生きておるのだとうぬぼれた無明やまよいがなくなって、

われ生くるにあらず、天地無量の縁の大きな命によって生かされて生きているということで、そこに世間の成敗得失を超えてこころの平安と自由の境地に生き得ていくことになります」

と説かれているのであります。

この一息一息が、無限の過去からの営みの上であり、無量のご縁の結晶として成り立っているのです。

大きな縁のお育て、これを阿弥陀さまのはたらきともいうのでしょう。

また僧正は

「念仏とは自我崩壊の声である。

我慢とうぬぼれのわれを打ち砕くことなくしては向うに神仏を対象的に画き出したところで、絶対者には永久に近づくことを得ないのである。

煩悩と利害打算、地位名誉などでかためたる自我が崩れ去ったところ、おのずからに破れ去った心の窓からは、尽十方界から弥陀の広大なるあたたかき新生命がさんさんと流れこんで、ここに新生復活は全うせられる」

とも説かれているのです。

遠く離れた向こう側に神仏を掲げて拝むというのではないのです。

自我が崩れ去ると、自然の阿弥陀の新生命が流れこんでくるというのです。

自我中心にはたらく世界は、六道輪廻の世界でもあります。

六道について、僧正は分かりやすく説明してくださっています。

いやいや働くもの、これが地獄。

わからずに働くもの、これが畜生。

働かずに欲するもの、これが餓鬼、

争い働くもの、これが修羅

欲で働くもの、これが人間。

働かず欲無きもの、これが天上界。

という具合であります。

なるほど、六道をこのように見ると、私たちの身の回りに、地獄も餓鬼も畜生の修羅も人間も皆あるのです。

自我を崩壊させて、縁起の新生命に目覚めて生きる、このことを説かれたのが椎尾弁匡僧正のお念仏でした。

 
横田南嶺

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