安心の中の不安
その方は、よく若松英輔先生の講座に出て学んでいらっしゃる方です。
若松先生が、
「大きな安心の中で、不安になる」
ということを言われていたというのです。
良い言葉だなと思って、すぐに帳面に書き留めたのでした。
たとえば、メガネをなくして、探しているとします。
どこにあるか、分からなくて不安になって探すのですが、絶対にこの家の中にあることが分かっているので、家の中にあるのだという安心感の中で、探しているという状態だと説明してくれました。
良いことを言われるなと思いました。
これは、鈴木大拙先生の、個と超個の世界でもあります。
不安になって探し回っているのは、「個」です。
この家の中には絶対にあるという、大きな安心というのが「超個」です。
その「超個」を自覚して、大きな安心の中で、不安になって探しているのが「超個の個」であると、私は解釈しました。
同じ捜し物をしていても違うのです。
ただどこにあるのか不安になって探すのと、この中にはあると安心して探しているのとは違うのです。
不安は無くなりません。
しかし、大いなるものに抱かれてある、「超個」に目覚めて、不安になっているのは、ただ不安になっているのとは違うのであります。
そこで私は、竹部勝之進さんの詩を思い起こしました。
久しぶりに書架から、竹部勝之進さんの詩集をとり出してみました。
「大きな安心の中で、不安になる」
これと同じようなことを詠っている詩があるなと思い出して探しました。
これと同じような意味の詩があるという記憶だけで、どんな詩かも思い出せません。
しかし、確かに竹部勝之進さんの詩集にあると思って探しました。
これもまた、「大きな安心の中で、不安になる」ことでもあります。
ありました。
「ヒカリ」という詩です。
ヒカリ
コドモガカクレンボウヲスルガ
ミヲカクスコトハデキナイノダ
木ノカゲニカクレテモ
森トトモニアルノダ
天地トトモニアルノダ
どんなにかくれんぼをして、隠れたと思っても、隠れた子を探しまわっても、森の中なのです。
この天地の中のことなのです。
そんな大きな安心感に包まれながら、隠れたり、探したりしているのです。
そのことが分かって、大いなる安心感に包まれて、それでただ泰然自若として涼しい顔をしているのではなく、やはり多くの方と同じように、あえて不安になって、ともに不安な気持ちを抱えたまま、励まし合っているような姿なのです。
絶対に助かると信じて、その中にありながら、敢えて皆と共に救いを求めているのです。
絶対にだいじょうぶだよといいながら、敢えて共に震えているのです。
この感覚、この感覚、だと思いました。
若松先生の『弱さのちから』の中に次の言葉がありました。
「医療従事者の皆さんは、みな勇気があって、こうしたときも難なく現場にいることができる、というのではない。
覚悟を決めつつも、どこかおびえながら、苦しみながら、現場に立っていることは想像に難くありません。
恐怖がないのではないのです。
そこを乗り越えて、危機にある人を救おうとしているのです。
真の勇気は、恐れないことではなく、恐れながらも使命を果たそうとすることなのではないでしょうか」
というのです。
恐れないと言うのでは無く、大きな安心に中で恐れながら、勤めているのだというのでしょう。
この使命感は慈悲なのです。
柳宗悦さんの
吉野山 ころびても亦 花の中
というのも同じ心でしょう。
柳さんは
「言おうとする心は文字通りであるが、この暮らしが幸いな日々の暮らしなのだと分からせてもらうには、きっと幾曲がりかの険しい坂道を通らねばならぬ。
考えると、ころびつづけの身ではあるのだが、実はころぶそのところが花の上なのである。
立とうが坐ろうがつまづこうが、倒れようが、どんなときでもところでも悉くが花の中の出来事にほかならぬ。
実は荒涼たる人の世は、万朶の吉野山であったのである。
行くところ花に看取られる身であったのである」
と解説されています。
花の中だとという絶対の安心感に包まれながら、敢えて皆と共にころんだり、起き上がったり、転んで涙を流したり、頑張ろうと励ましあったりするのです。
コロナなんて、だいじょうぶだなんだ、風邪と同じだ、どうせ、人間は死ぬのだ、コロナでも風邪でも事故でも死ぬのだから一緒だといっているのも悪くはないと思います。
それも真理でしょう。
コロナもやがて収まる、絶対にだいじょうぶと安心していながら、敢えてだいじょうぶかなとお互いに用心して、心配しながら生きるのです。
お互いに弱い者同士、いたわりあい、励ましあって生きるのです。
これは、大悲なのです。
大きな安心の中で不安になる、深い言葉だと思います。
横田南嶺