未来はどこに
最初に、
「三歳の息子、本質を突く質問」と題して、
「未来はどこにあるの」と、三歳のご子息に聞かれて困ったという話です。
わがままを言って「まだ遊びたい」と寝付かなかったので、「また明日ね」となだめていたら、「明日っていつ?」と質問攻めが始まったそうなのです。
小さい子というのは、あれこれといろんな質問をするもので、大人の方がドキッとすることがあります。
そんな質問に、水野さんがあれこれとやりとりをして、「未来」という言葉を口にされたのでした。
そこで、お子さんが、「未来はどこにあるの」と尋ねてきたという話です。
水野さんは、まだ幼い子は、時間の概念がうまく理解出来ていないようだったと考察されています。
「無理もない。生まれてきてまだ三年だ。
物心がつき始めたばかりで思い出と呼べる過去は少なくそこから想像できる未来も小さい」
と書かれています。
そこで、「息子はほぼ今だけを生きている、未来とはなにか、過去とはなにか、それがよく分からない。説明してくれ」というわけなのです。
さて水野さんは、「これがいざ説明しようとすると本当に難しい。
三歳児が理解できる平易な言い回しで時間の概念を説明するのは至難の業だ」と言います。
そこで、水野さんは、
「子どもは大人が理解しているつもりになっているものごとの本質を無邪気に突いてくる。
38年生きてきて自分には過去が蓄積されている。
今まで続いてきたのだから、春が来てやがて冬が訪れ、同じように日々が続いていくはずだと未来も想像できる。
だが、3歳の子どもには目の前の今しかない。今だけに集中して彼は生きている」と指摘されています。
ここで実に本質が語られていると感じました。
過去も未来もおなじく概念であります。
実体のないものであります。
なんとなくあるように思っているようなものです。
水野さんは、子どもよりも、「過去や未来を想像できる自分は、子どもとは違う思いを胸に抱くことができる、それは願いだ」と書かれています。
最後に
「どうか幸せな未来が訪れてほしい。
そしてこの今がいつか幸せな過去となってほしい。
そんなことを願って、父は今、君を笑顔で見ている」
と結ばれています。
最後の願いが、美しく、全体の構成が見事で、物語のような文章であります。
私が、禅の立場で見ますと、過去も未来も概念であって、実際は今を生きているだけであります。
黒住教の黒住宗忠は、
さしあたる ことのみ思え 人はただ
きのうはすぎる あすは知られず
と詠っています。
また同じように、
きのうなし あすはまだこぬ 世の中に
ただあるものは きょうのただ今
ともございます。
「今」を生きるのが、禅の極意といっていいでしょう。
いや、特別な極意などというものではなく、誰しも今を生きているのです。
しかし、そこに自覚がないのでしょう。
今を生きながらも、過去にひきずられ、未来に振り回されるから迷いになってしまいます。
水野さんのように、過去を思い、それがよき願いへと昇華されていけば、それはよろしいのですが、迷いに落ちてしまっては、今が死んでしまいます。
正受老人の「一日暮らし」という言葉を思い起こします。
正受老人は、白隠禅師のお師匠さまでいらっしゃいます。
白隠禅師を実に厳しくご指導された方であります。
そんな正受老人が、やさしい法語を残していらっしゃいます。
それが「一日暮らし」です。
およその意味を申しますと、
「一日というのは千年万年の初めであり、人はとにかく一日をよく暮らせば、その日は過ぎてゆく。
けっして今日一日だけといっておろそかにしていいというのではない。
あまり次の日の事ばかりを気にかけていては、今日の日をおろそかにしてしまう。
今日のつとめを今日行うことが大切で、どんなに苦しいことがあっても今日一日の辛抱と思えば堪えることもできるし、どんなに調子のいいことがあっても、今日一日の事と思えばそれに耽ることもない。
長い一生と思うから却って大事な事を見失う。
親孝行せよといわれても、一生のうちになどと思うと出来なくなってしまう。
一生といっても今日一日、今日一日を大切に勤めることしかない。
大事な事は今日ただ今の心だ」
というところです。
実に親切にお示し下さっています。
そこで、禅において、「未来はどこに」ともし聞かれたならば、「今こここにある」という答えになります。
もっと具体的に、「今熱いお茶を飲んでいる」、「今日は良い天気だね」、「今朝は冷えるね」という答えになりましょう。
もっとも、子どもは相手にしてくれないかもしれません。
やっぱり、元気に成長して、幸せな未来が訪れることを、今願うしかないのです。
「今日限り 今日を限りの命ぞと 思いて今日のつとめをぞする」
横田南嶺