妄想
こんな笑い話が紹介されています。
子どもが母親に質問をしたそうです。
何頭もの獰猛な虎に取り囲まれて、助けてくれる人もいなく、戦う為の武器もなく、隠れるところもない、そんな中でどうしたら助かるかという問いです。
お母さんは、あれこれと思いを巡らして考えました。
どうしたら虎から逃げられるか、頭をひねって考えるのですが、どうしても思いつきません。
とうとう母親はあきらめて、どうしたら助かるのかと子どもに聞きました。
子どもは言いました。
「僕だったら想像するのをやめるよ」
というのです。
一照さんが考え出した話なのか、何かに載っている話なのかわかりませんが、よくできた話です。
一照さんは
「母親のように想像の中で作り出した問題の解決策をあれこれ懸命に考えることと、子どもが言ったようにそのそもそもの想像自体を止めてしまうこと、その両者のアプローチにおける根本的な違いについてよくよく思いをめぐらしていただきたい」と説かれています。
そしてさらに、
「もし、我々の苦しみや悩みという問題もつきつめれば、この笑い話に出てきた母親の場合のように、もともとは想像に基づいたものにすぎないものだとしたらどうだろうか?」
と一層掘り下げています。
そこから、
「仏教がわれわれに送っているメッセージは、この話の中の子どもが言うように、「想像するのをやめてみたら?」ということではなかったか。
「覚」というのもこの夢見ているような想像の世界(妄想)からはっきりと目覚めるということだろう(「莫妄想」)」
と仏教の本質を説いてくださっています。
妄想を止めることが目覚めの本質でもあります。
『法華経』には、
「一切の業障海は 皆妄想より生ず。
若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え。
衆罪は霜露の如し、
慧日能く消除す」
という言葉があります。
あらゆる迷い、悩み苦しみは、みなありもしない自我を認めて妄想することから起こるのだというのです。
もし罪を懺悔しようと思うのなら、正しく坐って真実の相を思うことだ。
そうすれば、たくさんの罪も日の光の照らされると消える露や霜のように、消えてしまうのだというのです。
苦しみも悩みも皆、妄想が作りだしたものだと気がつけばいいのですが、なかなか難しいものです。
コロナ禍だの、なんだの皆夢の如しとみればいいのでしょうが、
「夢と思えばなんでもないが、そこが凡夫で」
そう気づかないものです。
どうせ離れがたい妄想ならば、その妄想を利用してしまおうと考えたのが、「内観の法」や「軟酥の法」であります
昨日のオンライン坐禅会では、白隠禅師の「軟酥の法」を実践しました。
白隠禅師がお若い頃に身体を壊されて、二十六歳の時に白幽仙人にあって、授かったのが「内観の法」と「軟酥の法」です。
「内観の法」とは、自分の気海丹田こそが、本来の面目、己身の弥陀だと観想するのです。
「軟酥の法」とは、軟酥という牛乳を精製して作った極上のバターかクリームのようなものを想像して行うのです。
香りも良くてあたたかい素晴らしいクリームが、頭のてっぺんから全身を潤してゆくと想像するのです。
思い煩いや、身体の不調なところなども、全部洗い落とされてゆくと想像します。
どうせなくならぬ思いを巧みに利用して、身心の健康を保とうというものです。
そうして、身心を調えて、安らかで穏やかな満たされた思いになると、自ずと観音さまの心が顕わになってきます。
そして、更に四弘誓願の願いに生きてゆくことを白隠禅師は説かれているのです。
横田南嶺