臘八(ろうはつ)無事円成
円覚寺では、なんと言っても前管長の足立大進老師がお亡くなりになったことが、大きなことでした。
それから三月から四月にかけて、法話、坐禅会などができなくなって、とうとう緊急事態宣言となりました。
しばらく、誰も訪れない状況になりました。
秋になって、少しずつ坐禅会、写経会などを再開してきました。
僧堂の修行もまた思いもかけぬ一年になりました。
僧堂の雲水は、今どこの僧堂も少なくなっている中で、有り難いことにうちは大勢集まってくれていました。
ところが、その大勢集まっているというのが、今回は裏目にでました。
文字通り一人当たり畳一畳で、若い者達が集まって寝起きしているのであります。やむなく緊急事態宣言の間は、皆を各自のお寺に帰すようにしていました。
六月からは、修行僧たちも寺に戻りましたものの、約半分の修行僧は、関東地方の感染者の多いことから、しばらく様子をみたいとのことで、秋まで待機していました。
どうにか、秋になって皆全員そろって修行に励むことができるようになりました。
感染症対策には十分に気をつけながらの新たな修行を試みてきました。
円覚寺では大摂心には居士の方にも禅堂に坐ってもらっていましたが、今回は外部の方は一切入れずに、僧堂内の修行僧のみで行いました。
この時だからこそ、できることはないかと考えて、従前の修行でもおかしいと思われるところは、文献などに当たって、古くからの伝統を検証して見直してまいりました。
加えて、食事を見直して、早く食べる習慣を改め、規則に縛られることも見直して、一口一口の食事をしっかり感謝して味わうように工夫しました。
更に断食を修行に取り入れました。
十月の大摂心と十一月の大摂心とで、それぞれ中日一日を断食にして、その翌日は捕食といって、ごく少量のお粥と雑炊のみにしたのでした。
すると、今までよりも、よく集中して坐れる、今まで自分が食べ過ぎていたことがよくわかった、その後の体調がいいなど、評判が良かったのです。
「この頃の若い者はどうも……」とは、よく聞く言葉ですが、若い者は純粋で正直に身体で感じてくれているのです。
そこで、今回の臘八にあたっては、どんな摂心にしたいか、雲水たちに話し合って決めてもらいました。
決まりだからといって、押し付けるのではなく、自分たちで考え決めてもらいました。
旧参の者も新到の者も集まって話し合って決めました。
そこで出た声が、なんと断食をもっと増やしたいということだったのでした。
そうして、今回は、更に断食を増やして、中日を挟んで二日間の断食を行い、更に最終日に向けて、それぞれ一日乃至二日の断食を自分で選択して取り入れてもらいました。
とりわけ、最終日を断食にして、七日の晩に牛乳で作ったお粥をいただいて、八日の未明まで坐り抜くということを行ってみたのでした。
断食のあとの捕食でいただくお粥は格別のおいしさであります。
そのお米の香り、味わい、全身にしみわたるものです。
お釈迦様は、難行苦行のなかで断食もなさっていたことはよく知られていました。
身体は痩せられて、あばら骨が浮き上がった姿が、苦行像として伝わっています。
手足は枯れた葦のようになり、 臀はラクダの背中のようにくぼみ、背骨は編んだ縄のように顕れて、肋骨は腐った古家の垂木のように突き出て、頭の皮膚は熟しきらない瓢箪が陽に晒されたように皺が寄ったのでした。
それでも、ただ瞳のみは、落窪んでいましたが、深い井戸に宿った星のように輝いていたのでした。
腹の皮をさすれば背骨をつかみ、背骨をさすれば腹の皮がつかめたといいます。
立とうとすればよろめいて倒れ、根の腐った毛は、はらはらと抜け落ちました。
臘八の摂心の折には、こんなお釈迦様の断食の様子も必ず話してきました。
お釈迦様の難行苦行にはとても及びませんものの、若い彼らがそれぞれ自分なりにお釈迦様にならって修行して、一椀の乳粥を有り難くいただく姿というのは、尊いものであります。
私もかつて師家になった頃は、修行僧たちを自分が引っ張ってゆくのだと力んでいましたが、この頃は修行僧たちに引っ張られてゆく有り様であります。
修行僧たちが、断食を頑張ってみるというので、こちらもつられて相伴させてもらっているのです。
今回の臘八は、特に修行僧さんたちに導かれて終えることができたと有り難く感謝しています。
横田南嶺