あること
第一回の時には、私もお招きいただいて、藤田一照さんや、スティーブン・マーフィ重松先生と鼎談させていただいことがあります。
毎年、それぞれテーマを決めて二日間にわたって行われる大がかりな催しであります。
私もよく登壇を頼まれるのですが、毎年こちらの日程が合わずに、今年も無理なのでした。
ところが今年は、私が既に入れていた法話や講演の予定が無くなってしまい、しかもZen2.0もオンラインになったので、いくつかのプログラムを拝聴することができました。
Zen2.0は、鎌倉を舞台に開催される、禅とマインドフルネスの国際カンファレンスと銘打っているだけに、実に海外からも多士済々の方々が対談などをなさっています。
なかでも私が今回注目したのが、藤田一照さんと、ALS患者である創発計画株式会社代表取締役の高野元さんとの対談でありました。
ALS患者の方とどのようにして、どんな対話をするのか興味があって拝聴してみました。
ALSという病気は、筋萎縮性側索硬化症といって、辞書をひくと、「神経原性の筋萎縮症の一型。きわめて進行が早く、多くは発症後3~5年で呼吸筋麻痺に陥り自発呼吸ができなくなる。指定難病の一つ」と説明されています。
対談で、高野さんから、藤田一照さんにいくつかの質問がなされました。
いくつもの質問が用意されていた中で、三つの問いがなされていました。
一つは、坐禅の不動性について、
二つにはサポートを受けること、
三つめは、あることについてでした。
それぞれALSという患者の方にとっての問題でもあります。
まず動けなくなりますし、何かをすることができなくなってゆき、ただあることになります。そしてつねにサポートを受けなければ生きてゆけなくなるのです。
これらを禅の教えからみればどうなるかという問いでした。
藤田さんは、不動性について、
「坐禅は人間が獲得した特別な能力、二足歩行、手による道具の操作、言語の使用、言葉を駆使して抽象的な思考をする力、
これらを意図的に放棄する。足を組み、手を組み、頭でも思考しない。すべてを封印する」
ことだと示されました。
するとどうなるのかというと、藤田さんは、
「人間を封印すると仏が現れる」
と説かれました。
その「仏とは、生かされて生きている命のありかたがそのままそこに現れていること」だというのです。
「そのために坐禅の姿勢と態度で坐っている、それを味わう為にじっと坐る」のだと教えてくれました。
そして「坐禅は、動物機能を休めて植物機能のはたらきを味わっている状態」であり、
「人間の根源のあり方、極限の形で現す」と示されました。
そこで、一切の活動を停止して、ただ坐る、ただ「ある」ことの「ありがたさ」に目覚めることが大事なのです。
そして、それは常に他からのサポートをいただいていることにほかなりません。
藤田さんは、
「坐禅は自分が所有している能力を発揮しておこなう個人のパフォーマンス、自分の能力、自力を発揮することと思っていたが、それは坐禅ではなく、別の活動であった」と仰り、
「坐禅は自力ではなく他力、他力と自力とのどちらも言えるもの」として、
「姿勢でも自分の力だけで維持しいてるのではなくて、重力との自分の身体の関係を感じるセンサーを通して、床の支えを受け容れ、重力の向きを感じながら、より調和的な床や重力とのつながりを探求しているのが坐禅の姿勢」だと説明されていました。
更に「呼吸は空気との関わり、入る空気は贈り物、贈り物は吐くことに対して還ってくるもので、入ってくるものに対して吐くのだ」と語っていました。
そして「姿勢も体重を床に預けることによって、それと同時に逆方向の支えがやってくるのを受け取ってできる」と示されて、
「心も、音や光やにおいや味、皮膚感覚といった五感の情報を受け容れて、今起きていることをしみじみと受け取っている。
坐禅は何かを取りにいく姿勢ではなく、いまこの瞬間に世界からオファーされているあらゆる種類のサポートを合掌の気持ちでして受け取っている。
いつもそのように生きてるのだが、そのことを見失いがちなので、その事実を改めて確認して感謝する」行いなのだと実に丁寧に教えてくれました。
最後のあることについては、最も奥深い問いであります。
藤田さんは、
「あること」を「あまりも当たり前で、ちゃんとした問題としてとらえることが出来がたい」ことだと指摘されました。
そして、
「あることは意志を超えている。あることの上に意志がある」
と仰っていました。
更に私たちは普段「あることを当たり前に思っている。
そして、どうあるかについてばかり関心を注いでいる、
元気であるとか、どうあるかについて関心がある。
それは、存在の属性であり、その属性ばかりに関心をもっている」と言われました。
そして「しかし、死の直前になって存在の属性が剥ぎ取られて、驚いてしまう」というのです。
そこで私たちは
「生きているうちから、あることのわからなさ、その神秘にもっと愕然と驚く必要がある。
老病死が存在の神秘奥深さを知らせようとしている」
と仰せになっていました。
私たちは、もっと
「存在そのものを忘れないようにすること」
が必要だというのです。
「坐禅は存在の属性を剥ぎ取られた状態になって、存在そのものに深く触れている状態」と説いてくださっていました。
不動性、サポートを受ける、あるということ、それぞれ、高野さんご自身のALSという病と深く関わる問題を、禅の立場から人間として本質まで掘り下げて説いてくださっていて感銘を受けました。
すばらしい対談でありました。
坐禅は、ただ坐るのです。
だだあることに徹するのです。
その有り難さに感謝することであります。
横田南嶺