神頼み
毎日新聞の二十日(日)のコラム記事「時代の風」に長谷川眞理子(総合研究大学院大学長)先生が、「現代における神頼み 望むことで得る平安」という題で、興味深いことを書かれていました。
長谷川先生の記事は、参考になることが多く、いつも注意して読んでいます。
長谷川先生は、記事のなかで、ご自身のことを、「今でははっきりと無神論者である」と言い切っておられます。
先生は、仏教を信仰する家庭に生まれ、基本的に仏教の伝統で育てられてきたといいます。
ですから、無神論者であるといいながらも、「親の仏教のみならず、日本に古来存続する、万物に霊を感じるアニミズム的なものも、何か私の心の奥深いところで核となっている気がする」と書かれています。
祖父母や母は既に亡くなり、それなりに仏事を行われたというのですが、忘れてしまうこともあると言われます。
しかし、去年に、愛犬が老衰で亡くなったそうです。十五歳ですので犬としては高齢なのでしょう。それでも人間に比べれば、十五年というのは短いと先生は書かれています。
愛犬の位牌に水をあげ、命日にお花を飾り、それは自分の母に対するよりもずっと気遣っているというのであります。
記事を読んでいて、微笑ましい気持ちになります。
そこから、先生の分析が始まります。
「人間が「神様」を必要とする理由はたくさんある。
宗教の教義にかかわらず、ヒトにはある種の善悪の感覚がある。
そして、善が悪に負けている状態を見ると何とかしたいと欲する。
ところが自分の力がまったくそれに及ばないことがわかると無力感に陥る。
そこで、自分たちの力を超えた全能の存在が、いずれ何とかしてくれるだろうと信じたいのだ」
というのです。
更に先生は、
「無力な自分には、そう望む以外にできることがない。
そう望むことで心の平安を得るのである」
と仰せになっています。
先生は、無神論者といいながらも、このような感情もお持ちなのです。一見矛盾しているようにも見えますが、宗教心というのは、そう簡単に割り切れるものではないのであります。
「ヒトは、自分で周囲の出来事を制御できると安心する。
が、どうにもならないことがしばしば起こる。
その時には、自分を超越した存在にお願いし、ひとまずそちらに任せることによって安心を得るのだろう」
と先生は書かれていました。
仏教では、まず世の中は、自分の思いではどうにもならないものであると説いています。
そのどうにもならぬものを受け容れて生きることを説きます。
「苦しい時の神頼み」も一時の安心にはなるでしょうが、そこから更に、お互いの人格の形成にもよい影響を与え、これからの人生に向かって、大きな力となる「祈り」に高めるころができます。。
どうか、みんなが安らかに幸せになりますようにと祈り願うことは、仏さまの願いにも通じて、自我意識が小さくなって、本来の慈悲の心に目覚めることにつながってゆきます。
コロナ禍が終息しますようにと祈り願うことによって、普段暮らしを意識して、正しい情報の収集につとめ、お互いを思いやることができるようになります。
そこで、苦しい時のみならず、常日頃から神仏に祈り願うことは、大切なこととなるのであります。
苦しい時の神頼みも、そのように高い祈りへと昇華してゆくようにすれば、よいご縁になります。
横田南嶺