愚直の尊さ
役目柄、怪文書の如きものが届くこともありますので、見知らぬ方からの手紙を開封する時には勇気がいります。
先日も、そんな思いをして開封して読んでみますと、それがなんと感動する手紙でありました。
その方が、所用があって、とある円覚寺派のお寺を訪ねたそうです。
炎天下、気温が四十度に迫ろうかという中、和尚がお墓にいると表示されていたので、墓地にまわると、遠くからお経の声が聞こえてきたそうです。
近づいてみると、
なんとその暑い中を、和尚が一人で一軒一軒のお墓、ひとつひとつの石塔に丁寧にお経をあげておられたのでした。
その方の手紙には、「和尚の身体から後光が輝いていました」とありました。
炎天下に誰もいないところでお経をあげる姿に感動されたそうです。
その和尚が、鎌倉の円覚寺で修行された和尚だと聞いたので、嬉しくなって手紙を書いたというのでした。
有り難い手紙でありました。
こんな手紙をいただくとは嬉しい限りであります。
その和尚は、たしかに長年円覚寺の僧堂で修行し、更に本山にもお勤めいただいた和尚でした。
在家から出家したのですが、決して器用とは言いがたいところがあって、修行時代にも人一倍苦労していました。
在家から僧侶になっても、なかなか入る寺が見つからないというのが昨今の事情なのですが、実直な人柄を評価されて、今のお寺に入寺されたのでした。
晋山式(住職になったことを披露する法会)も催されて、私も管長として出席し、お祝いを述べたのでした。
以前、どうしているかなと思って突然訪ねてみたこともあったのですが、きれいに掃除をされていたので、しっかりやってくれているなと安心しました。
恩師の松原泰道先生は、「布施無きお経を読め」と仰っていました。
お経を読んでお布施をいただくのが当たり前のようになってしまうと、お布施をいただけるからお経を読むだけになってしまいかねません。
誰からもお布施をいただけないお経をよく読むのだという教えでした。
誰が見ていなくも、実直にお経を読む、これは禅僧の原点であります。
少々不器用であっても、愚直にまさるものはありません。
そういう不断の精進こそ、尊い光を放つのです。
こんな和尚が地方に一人でもいてくれたならば、仏法は滅することがないでしょう。
残暑が厳しいのですが、爽やかな風を感じるお手紙でありました。
横田南嶺