驢馬が井戸を見る
驢馬(ろば)が井戸を見ているのであります。
これは、同時に井戸が驢馬を見ているということもできるのであります。
次のような古い禅問答がございます。
曹山和尚が僧に問いました。
仏さまが、その時々、その人々に応じて様々な姿を現すのは、お月様が水に影を映すようなものだと言いますが、これはどういうことでしょうかと。
僧は答えました、驢馬が、井戸を見るようなものだ。
曹山は言いました。それはよく言い当てているが、まだ八分しか言い得ていない。
僧は、では和尚ならばどうですかと。
曹山は、井戸が驢馬を見るようなものだと答えました。
「驢、井を覰(み)る」と言うのでは不十分で「井、驢を覰(み)る」と言ったのです。
これは何を言ってるのか、訳の分からない言葉のように見えます。
鈴木大拙先生が、『禅の思想』の中でこの言葉を解説なさっています。
大拙先生は、
「禅語を単なる無意味の文字を並べたものと見てはならぬ」
と指摘されています。
私たちは、いつの時代にあっても、思わぬ災害に悩み苦しむものです。
これは今も昔も変わりはありません。その度に悲しみ憂いが起きてきます。
こんな時に、何とか安心を得たいと願うのが私たちの常であります。
大拙先生は、
「これらの願いに応じて何か現れてくるものはないであろうか。
そんなものは何もないのだといっても、是等の願いを打ち消すわけに行かぬのが吾等の心の本質である」
と述べています。ここに宗教の求められる所以があります。
そこで大拙先生は、
「吾等の持ち能ふ純真な願いはそのままに消えるものでなくて、必ずこれに応ずるものがある」と説き、
「求むるところあれば必ず応ずると云ふ」と示しています。
浄土の教えでは、南無阿弥陀仏と頼めば、その願いに応じて現れるものがあるというのです。
驢馬が井戸を見れば、井戸もまた驢馬を見ているのであります。
エックハルトが
「私が神を見る目は、神が私を見る目と同じである。私の目と神の目は、一つの目であり、一つの認識であり、一つの愛である」
と言われているそうです。
エックハルトのことはよく存じ上げないのですが、
私が仏を見ているということは、仏が私を見ているということでもあります。
私たちは、分別知でしかものを見ていませんので、こちらに私がいて、あちらに仏がいらっしゃるという対立でしか見ていません。
しかし、無分別智においては、私の眼に仏が映っているのと同じように、仏の眼にも私が映っているのです。
驢馬の目に井戸が映っているのと同じように、井戸にも驢馬が映っているのです。
この無分別智においては区別はありません。
一つの眼であり、一体になっているとしか言いようがありません。
これは特別な訓練もなにも必要がないのです。
無分別は、努力して得るものではありません。
なんのはからいも無しも、驢馬が井戸をのぞくと、井戸に驢馬が映っているのです。
それと同じように、私が仏を念じることは、仏が私を念じているのであります。
分別知に覆われて、この事実に気がついていないだけであります。
無分別智は、何も努力はいらないのですが、ただ自覚が必要です。
その自覚があれば、安らかな心に満たされるのであります。
横田南嶺