大乗の教え
大乗に対して小乗という言い方があります。
大乗仏教があれば、小乗仏教があると思われることでしょう。
実際に小乗仏教という言葉が使われてきました。
それは、ひとえに大乗仏教の側から言われた言葉であります。
大乗仏教は、紀元前後頃に興った新しい仏教であります。
この大乗がどのように興ったのかは、長らく謎であり、今もこれという決定的な回答はありません。
般若思想や、法華思想や、浄土思想、華厳思想など、実に多様性があって、一概に論じることはできないものです。
同じ頃に多発的に興ったものとしか言いようがありません。
大乗仏教の立場から、大乗以前の仏教をおとしめて「小乗仏教」と呼んだのでした。
そこで、この頃は「小乗仏教」という言い方はしないようになっています。
中村元先生は「原始仏教」という言い方をされていました。
私が学生時代にお世話になった三枝充悳先生は、「原始」という言葉には、未開なという価値観が入っているというので、「初期仏教」と呼ばれていました。
この頃は、佐々木閑先生は「釈迦の仏教」と呼ばれています。
インドから中国に仏教が入っていった時は、所謂「小乗仏教」、即ち阿含と呼ばれるものも、大乗仏教もほぼ同じ頃でしたので、どうしても大乗がすぐれていて、「小乗」と名のつくものは、文字通り小さな乗り物であり、大乗よりは劣った教えと受けとめられました。
小乗仏教では、我執を離れる修行をして我執を断って、生死輪廻を超えて涅槃に入ることを目指します。
涅槃とは、火が消えることを表します。輪廻の世界から消えるのです。
大乗仏教になると、単に生死の世界から消えるだけでなく、菩提を実現することを説きます。
単に消えるという涅槃だけではなく、積極的な意味を持つ菩提、悟りを顕現させるのです。
それは具体的には、この生死の世界を空であると明確に見とどけて、生死の世界に自由に入っていくことを説くのです。
小乗仏教で教えられたように、生死を超えて涅槃に入るのが究極ではなく、むしろ積極的に、この迷いの世界、生死の世界に入ってゆくのです。
その生死の世界、迷いの世界の真っ只中にこそ、真の悟りを見出すのであります。
生死即涅槃、煩悩即菩提という教えであります。
こういう教えを説くようになって、それまで説かれていた教えを、小さな乗り物だと言って、「小乗仏教」と呼ぶようにしたのであります。
そんな大乗の基本となるところを、今修行僧たちと『大乗起信論』を輪読しながら学んでいるところであります。
横田南嶺