大海原の風を受けて
華厳経の中に、「無功用(むくゆう)」についての譬喩があります。一艘の小舟が川を下っています。
川を下るときには、櫂や櫓を用いて一所懸命に漕いでゆきます。
その小舟が川を下っていよいよ大海にでると、櫓や櫂で漕ぐことをやめて、帆をあげます。
その帆をあげるだけで、大海原の風を受けてひとりでに進んでゆくことができます。
その速さというのは、櫂や櫓で漕いでいる時とは比べようもないほどであります。
そのように、菩薩行の大海に入れば、自分の意志や力ではなく、仏さまの大いなる力にもようされて、一切のはからいなしに渡ってゆくことができるというのです。
これが「無功用」なのだということです。
玉城康四郎先生は、この大海というのは、今生きている人生の海原を表していると仰います。
「自分のはからいの櫂と櫓を用いることをやめて、自分の全人格体に仏の風を受けて、この人生の海原を泳いでいきたい」と説かれています。
「自分のはからいが捨てられて、ただ仏のはからいによって、あるいは仏の智慧によって動かされていく」、これが無功用であり、自然というのです。
私は、この譬喩を読んでいて、大海に入るまでは、一所懸命に櫂や櫓で漕ぐときが必要なのだと感じました。
最初から、海原にいるような気持ちで、帆をあげていてもいつまでたっても進みません。
一所懸命に櫂や櫓で漕ぐ時が必要だと思うのです。
馬祖道一禅師が、「平常心」、ありのままでいいと説かれ、
臨済禅師が「無事」といって、外に求める必要はないと説かれていますが、
馬祖禅師も臨済禅師も大海原に到っての言葉です。
仏道を求めるということは、戒律をたもち、禅定を修して一所懸命に努力する時が必要であります。
そうしてひたすらひたすら櫂と櫓で漕ぐ内に、あるときフッと大海原に出るのだと思います。
大海原に出たならば、もう櫂や櫓で漕ぐ必要は無くなり、帆をあげて風に任せていればいいのだということです。
この華厳経の譬喩から、やはりはじめは一所懸命に努力する時期があることを学びました。
横田南嶺