気合い
なかには真民先生の本が二冊も入っていました。
なんでも、この新型コロナウイルス感染拡大の中、記念館もしばらく休館せざるを得なくなり、真民先生のお住まいを整理しておられたとのこと、その中でみつけた本を下さったのでした。
『すべては光る』と『み仏は風の如く花の如く』、どちらも曹洞宗宗務庁の出版で、今は手に入りがたいものです。
本の扉には、墨痕鮮やかな真民先生の書がございます。
思いもかけない有り難い、贈り物であります。
さっそく『すべては光る』を、ひもといて読んでいると、
「気合い」という短い文章が目にとまりました。
「詩は気合いなのである。木にも気合いがあり、その木に花が咲くときには、更に強い気合いがこもっている。詩が短ければ短いほど、この気合いが大切である。
気合いとは、その字の通り気が合することである。二つのものが一つになることである。素材と自己とが一つになるところに詩が生まれる。この気合いを一番会得していたのが芭蕉ではなかろうか。」
長谷川伸さんの文を読んでいたら、「およそ迫力のないものぐらいつまらないものない。迫力、迫力、そして新しい迫力」と行っておられた。
という文章でした。
詩は気合いという真民先生の言葉には、胸打たれます。なにか警策をいただいた思いです。
そのあとにあった「坐」という短い文章も心に響きました。
「とにかく坐ることだ、坐ってさえおれば、道はひらけてゆく。そして、その道は正しい道である、坐り方が足らないと、邪道に走ったり、病気になったりする。坐はわたしの詩の骨髄である。
タンポポはしっかりと大地に坐っているのだ。これを学び取らねばならぬ。禅を頭で考える人は、結局どこかに駄目な処がある。
念ずれば花ひらく
坐すれば道ひらく
である」
という二つの文章には、大きな力をいただきました。
ちょうどオンライン坐禅会の前の日に届いたので、この「坐」の言葉は、参加して下さった方にも是非ともお伝えしようと思ったことでした。
やはり、真民先生の詩が、今も心に響き、大きな力を与えてくださるのは、この気合いがあるからであり、気合いを発すために、しっかりとした坐があったのだと改めて思ったことでした。
横田南嶺