不易流行
不易流行は、『広辞苑』によると
「(芭蕉の俳諧用語)不易は詩の基本である永遠性。流行はその時々の新風の体。共に風雅の誠から出るものであるから、根元においては一つであるという」
という意味です。
不易は「かわらないこと。不変」という意味です。
不易流行は、平たくいうと、変わらぬものと、変化してゆくものとがあるということです。変化してゆく中にも変わらないものがあるということです。
私たちの世界でも、変わらずに守ってゆくべきものと、時代の応じて変わってゆくものとがあるというのです。
とりわけ、伝統を重んじる世界ですので、変えることなく守るべきものと、時代に応じて変わるべきもの、そして変わらざるを得ないものがあります。
それをどう見分けてゆくかという質問なのです。
私がいつも心に思っていることは、八木重吉の次の詩の心です。
自分がこの着物さえ脱いで乞食のようになって神の道に随わなくて好いか考えの末は必ずここに来る
というのです。
八木重吉はキリスト教徒でしたので、「神の道」と表現されていますが、私ならば「仏の心」なのです。
どんな着物を着るか、どんな着物を守るかということには、私は何の意味も感じません。
そんなものを脱いで、如何に「仏の心」にかなうかという一点で物事を考えています。
そして、その「仏の心」こそ、変わることのないものにほかなりません。
たしかに、伝統を守ることは大切です。
しかし、ただ伝統を守るということしか考えていないようでは、単に前例を踏襲するばかりになりかねませんし、下手をすれば、コピーのコピーを繰りかえすうちに、もとのものとは違ったものになってしまっていることさえ、ないとは言えません。
やはり、おおもとはなんであったか、本来はどうあるべきかを考えていないと間違いを起こしてしまいます。
私たちにとっての根本は、なんといっても「仏の心」にほかなりません。
「仏の心」は、変わりようがないのです。
その根源を求める姿勢を失ってはなりません。
私たちが、何をどうしようが、仏の心は微動だにしないものです。
そのことが分かっていれば、時には思いっきり変わることもできれば、時にはじっと変わらないでいることも自由にできるはずなのです。
横田南嶺