仏の大悲
鈴木大拙先生がよく引用された書物に『安心決定鈔』というのがあります。
作者は諸説あってはっきりとしていません。
お念仏の教えを説かれた書物ですが、お念仏する私たちと阿弥陀様とが一体であることを説いているのが特徴です。
その中に、次のような意味の言葉がありました。
念仏三昧というのは、私たちが阿弥陀様を念じることを根本とするのではなく、仏の大悲が私たちをおさめとってくださることを念じるのだというのです。
その譬えとしてお日様のことが説かれています。
私たちは、自分の目でものを見ていると思うけれども、お日様の光に照らされてこそ見えているのだということを説かれています。
いくらよく目が見えても、お日様の光が無い真っ暗闇では何も見えないのです。
もちろんこと、お日様が照らしていてもそれを見る目がないと見ることはできません。
お日様の光が、私の目を通して見るというはたらきを現してくれているのだという見方です。
これは坐禅にしても同じことが言えると思います。
道元禅師は、習禅にあらずと仰せになっています。
自分があれこれと計らいを弄して、つとめるのではなく、
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、
佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなわれて、
これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、
こころをもつひやさずして、生死 をはなれ佛となる。」
というのです。
自分の身も心も放ってしまい、全部仏という大いなるはたらきに任せきって、その仏のはたらきのままにゆだねていくというのです。
私が最近気がついた無意識の呼吸というのも同じようなところがあります。
私が呼吸しようと努力するのは意識的な呼吸であり、呼吸法となります。
しかし、私をして呼吸せしめる大きなはたらきが、私の一呼吸に現れているのだと受けとめて、その大いなるはたらきに身をゆだねてしまうのです。
私たちの活動の一つ一つがすでに、仏の大悲の現れだと受け取るのであります。
私の計らいを手放してゆくのです。
波が寄せては返し、自然と繰りかえされているように、吐いては吸ってを繰りかえしています。
大自然の大いなるはたらきが一波、一波に現れているように、一呼吸一呼吸に現れているのです。
自分で波を調整しようとしても無理なのです。ただその波に身を任せていくのです。
そうしていると、仏の大悲は到る処に現れているのだと気がつくことができます。
横田南嶺