無分別
臨済禅師は、仏とは何か、決して外に求めてはならないとくり返し説かれました。
自己に本来具わっている清らかな智慧のはたらきこそが仏だと説かれています。
清らかな智慧とは、無分別の智慧だと説いています。
「無分別」というとあまり良い意味のように思わないかもしれません。
『広辞苑』をみても、
「分別のないこと。前後の考えがないこと。思慮のないこと」
という解説があります。
しかしながら、その『広辞苑』にも、仏教語として
「主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと。」
という解説もあるのです。
更に『広辞苑』にも「無分別智」という語が「無分別にもとづく智慧。根本智」として解説されています。
では、岩波の『仏教辞典』を見てみますと「無分別」は、
「分別から離れていること。主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようとしないこと。この無分別による智慧を <無分別智> あるいは <根本智> と呼び、根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を <後得智(ごとくち)> と呼ぶ。無分別を実現した心のあり方を <無分別心> という。」
と解説されています。
要するに、「無分別」は仏教では、大切な智慧なのです。
鈴木大拙先生も、この「無分別」の智慧を大切に説かれています。
『東洋的な見方』に次のような一節があります。
「東洋文化の根抵にあるもの」の章で、
「分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの——この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。」
と説かれています。
その通りで、分かるということは、分けて知ることです。
「哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。」
分けてものを見ることが、西洋思想の特徴だと大拙先生は指摘されます。
そして、分けることは、それのみに終わらないのです。更に増幅されてゆくのです。
その様子を大拙先生は、
「それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」
勝者と敗者とが出てくるのです。
ブッダの説かれた通り、
「勝つ者 怨みを招かん 他に敗れたる者 くるしみて臥す」
という世界になります。
更に大拙先生は、
「高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。
いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。
鳥のように大空を駆けまわりたいと考える。
さんざんの計画を立てた後、とうとう鳥以上の飛行能力を発揮するようになり、大西洋などは一日で往復するようになった。
大空を征服したと、その成功を祝う。」
と言います。
そのようにして、次々と文明を発達させてきたのです。そのおかげでお互いの暮らしも便利になりました。
新幹線や飛行機の恩恵を受けています。
しかし、それは良い面ばかりではありません。
大拙先生は、
「この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。」
と厳しい指摘をされています。
頭を中心にしていると、分別にかたよってしまいます。そこで臍下丹田(せいかたんでん)に氣をおさめて、静かに坐るのです。
無分別のままに、感じるのです。すると、
聞くままに又心なき身にしあれば己なりけり軒の玉水
という歌のように、雨だれの音と自分と隔てがないと感じられるのです。
横田南嶺