吹毛剣(すいもうけん)
十一日は、白山道場龍雲院において、今年の初坐禅会。『碧巌録』の第百則を提唱。
平成二十三年から、毎月一則ずつ提唱してきて、とうとう第百則になりました。
一年のうちで、八月のみ休会にしていますが、それ以外は毎月行ってきました。
途中で、東日本大震災の翌日が坐禅会にあたったときと、
昨年の台風のあとと、二回だけ自然災害によって休会となりましたが、無事百則まで終えることができました。
第百則は、巴陵禅師に、僧が「吹毛剣」とはどのようなものでしょうかというと問い、
それに対する巴陵禅師の答えが問題になっています。
吹毛剣とは、ふっと吹きかけられた毛も、スパッと切れるという名剣のことです。
禅で取り上げられる剣とは、べつに人を殺めるためのものではありません。
心にある煩悩妄想、執着を断ち切る剣であります。
それに対する巴陵禅師の答えは、まるで画のような美しい言葉でした。
巴陵禅師は、月夜に珊瑚をおくと、珊瑚の枝の先ごとに月の光に照らされて、実に明るく輝いていると答えたのでした。
珊瑚は、それだけで美しい宝物であります。それがお月様の光りに照らされて、枝の一本一本が光り輝いているというのです。
月の光は、みほとけの光明を指しているのでしょうか。
みほとけの光りに照らされてあらゆるものが光り輝くという世界でしょうか。
圜悟禅師は、「光、万象を呑む」と著語されています。
「光、万象を呑む」は、「心月孤円、光、万象を呑む」という盤山禅師の言葉です。
この場合「心月」とありますから、心の月であり、光りは心から発せられるものであります。
『華厳経』には、「一衆生として如来の智慧を具有せざる無し。但妄想執著を以て証得せず。
若し妄想を離れば、一切智自然智無礙智、即ち現前することを得ん。」という言葉があります。
あらゆるいのちあるものは、みな仏の智慧を具えているのだけれども、妄想執着の為に気がついていない、
妄想をはなれたならば、仏の智慧が現れるというのです。
また『涅槃経』には、「一切衆生悉く仏性有り。煩悩覆うが故に知らず見ず。」と書かれています。
同じような内容ですが、あらゆるいのちあるものには、仏の心が具わっているが、煩悩に覆われているので、気がつかずにいるのだということです。
吹毛剣で、お互いの煩悩執着を断ち切れば、光り輝く世界が現れるのであります。
坂村真民先生の「柔軟心」という詩の一節に、
何もかも無くしたとき
何もかも ありがたく
何もかも光輝いていた
とあります。
なにもかもが光り輝く世界に、お互い生まれてきて、ただいまも生きているのです。
ただその光りに気がついていないのです。
真民先生は、「ある人へ」という詩で詠っています。
ある人へ
光が射しているのに
あなたはそれを浴びようとしない
呼んでおられるのに
あなたはそれを聞こうとしない
手をさしのべておられるのに
あなたはそれを握ろうとしない
お経にもそんな人のことを
書いてあります
どうか素直な心になって
二度とない人生を
意義あるよう生きて下さい
『碧巌録』百則を終えて、願うことは、この詩の心に尽きています。
横田南嶺