みめいこんとん
普段の大摂心では、午前三時の朝の勤行から始まるのですが、
臘八の大摂心では、その前に午前二時の坐禅から始まります。
全くの闇の中であり、「みめいこんとん」とは、こういう時をいうのであろうと感じます。
そんな中を坐るのは、格別のあじわいがあります。
物音もしない、深夜ひっそりとした中、
自分という意識もはたらかない、
朝か夜かもわからない、
全くの無分別の状態を楽しみ、あじわいながら坐っています。
坂村真民先生の「みめいこんとん」の詩が、ふと思い浮かびます。
みめいこんとん
わたしがいちにちのうちで
いちばんすきなのは
みめいこんとんの
ひとときである
わたしはそのこんとんのなかに
みをなげこみ
てんちとひとつになって
あくまのこえをきき
かみのこえをきき
あしゅらのこえをきき
しょぶつしょぼさつのこえをきき
じっとすわっている
てんがさけび
ちがうなるのも
このときである
めいかいとゆうかいとの
くべつもなく
おとことおんなとの
ちがいもなく
にんげんとどうぶつとの
さべつもない
すべてはこんとんのなかに
とけあい
かなしみもなく
くるしみもなく
いのちにみち
いのちにあふれている
ああわたしが
いちにちのうちで
いちばんいきがいをかんずるのは
このみめいこんとんの
ひとときである
真民先生が、詠われているように、真っ暗闇なのですが、何か「いのちにみち いのちにあふれている」という感覚がするのです。
そんな中を、ただただ黙々と坐っています。
みめいこんとんの坐禅を終えて、一度隠寮に戻って、三時からの勤行の支度をします。その帰りには、満天の星を仰ぎ見ます。
真民先生も星の光を吸われていたようです。
こんな真民先生の詩もございます。
吸飲
明星の光を吸い
黎明の霊気を飲む
これがわたしの自立健康食
七十八歳のわたしが眼鏡なしで
本が読めるようになった
宇宙自然食
禅は、あれこれ難しい理屈を並べるよりも、
こんな「みめいこんとん」の中に溶け込んで坐ってみることが大事だと思います。