「先師にこの語あり」
孔子のお弟子に顔回(がんかい)という人がいます。不幸にも若くして、
孔子よりも早く亡くなった人です。あの孔子も顔回が先に亡くなった時には、
はげしく慟哭されました。「慟哭」とは、はげしく声をあげて身もだえして悲しむことです。
門人が驚いて、先生のような方でも、そんなに悲しむことがあるのですかと聞くと、
孔子は、顔回の為に泣かなかったら、いったい誰の為に泣くというのだと言われました。
それほど信頼されていた弟子だったのです。
孔子から「一を聞いて十を知ることができる」とまで言われた顔回ですが、
「一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、
陋巷(ろうこう)に在り」といって、わずか一碗のご飯と、一碗の汁という質素な食事で、
しかもせまくてむさくるしい町に住んでいたといいます。
しかし、孔子はこう言いました。「人は其の憂いに堪えず。回や其の楽みを改めず。
賢なるかな回や」と。多くの人は、そんなわびしい暮らしに堪えられないが、
顔回はそれを楽しんでいて、そのように道を楽しみ学ぶことを止めようとはしない、
顔回は偉いものだよと仰せになったのでした。そんな顔回だったからこそ、
孔子は多くの門弟の中でもこよなく愛されたのかもしれません。
仏教にも四依止(しえじ)といって、修行する者がよりどころとすべき
四つの暮らしが説かれています。一つには、常托鉢といって、常に托鉢の暮らしをすることです。
二番目は樹下居(じゅげきょ)といって、木の下のような質素な住まいに住むことです。
今の僧堂でいう「起きて半畳、寝て一畳」の暮らしです。
三番目には着糞掃衣(じゃくふんぞうえ)といって、質素な衣を身につけることです。
して四番目が陳腐薬(ちんふやく)といって、枯葉の様なものを煎じただけの藥用いることです。
一切の贅沢や飾りをはぎ取った暮らしです。
我々修行をしていると思っていますが。たしかに托鉢もします、こうして夏は麻の衣、
冬は木綿も衣ですが、これらも形だけ質素にしているだけで、本当に質素な暮らしを
楽しんでいると言えるでしょうか。反省すべきであります。
聖書にも富んでいる者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと説かれています。
釈宗演老師というお方は、修行を終えたあとに慶應義塾に学び、セイロンに留学し、
シカゴの万国宗教会議に出て、更にヨーロッパにも布教行脚をされて、
外地では洋装でいられたりと華やかな印象を持たれます。
しかし、長年に宗演老師に随侍して、最後に脈を取るところまでおそばに仕えた
大眉老師というお方は、宗演老師を追悼して「先師にこの語あり」という文章を残されています。
そこには、長年おそばに仕えて、宗演老師の言葉でいつも耳にしていて忘れられない言葉は
「もったいない」という一語だと記されています。
病の床に伏してからも、多くの人がお見舞いくださるのを、「もったいない、もったいない」と
言っておられたと言います。
我々今の豊かな時代に修行させてもらえるのは、有り難いことです。枯淡な暮らしと言いますが、
形式ばかりで、本当に枯淡とは言い難いところがあります。そんな中で修行するのですから、
せめてこの「もったいない」という気持ちだけは失ってはなりません。
(平成30年10月26日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)