慢心とその対処法
木漏れ日@黄梅院
慢心というものは、たいへん恐ろしいものです。仏教では四煩悩という
根本煩悩の一つになっています。
我慢という言葉がありますが、一般的には、「我慢をしなければならない」という
ような、辛抱をするという意味で使われていますが、そういう意味での我慢は
悪い意味ではありません。
「今が我慢のしどころ」というもは、悪い意味ではないのですが、
もともとの意味は、我というものに対する慢心です。慢心、おごり、高ぶりです。
これは、人間は絶えず付きまとう。
特に悲しいかな、一生懸命に修行をすればするほど、これが付きまとってしまう。
そして、この慢心が修行の大きな妨げとなる。
慢心というのは、恐ろしいし、難しい。人間は、どうしても、「自分はまんざらではない」
「自分はそこそこである」と思ってしまう。
それでは、どうしたら、この慢心を克服していくことができるであろうか?
唯一、慢心を克服することが出来るのは、冷静に自己を観察して、今、自分に
慢心があると静かに認めることより他にない。
そういう自分自身を冷静に観察する眼(まなこ)と修行も必要です。
従来の馬祖禅では、作用即性(さゆうそくしょう)一辺倒で、一枚になりつくすと
何でも一枚ですまされてしまい、周りが見えなくなることがあり、
慢心にも気づかなくなってしまう傾向があります。
ですから、自己を観察する眼というものを保っていかなければなりません。
これが修行の大事なところです。
{平成30年5月24日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より}