止観双運
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
禅定の根本は、心を一つに集中をさせるということで、これが我々の禅定の修行の
土台です。しかしながら、この禅定とともに、止観という言葉があるように、
観(かん)という、智慧というような、よく観(み)るという働きが
なくてはならない。
止と観の両方をおさめていくことが大切であると『天台小止観』には説かれている。
心を一つに集中をする、それだけであって真理を観察する智慧がなければ、
そのような禅定は誤った禅定となってしまいかねない。
逆に集中することなくして、ただ、智慧ばかりでは、これもまた、十分な力を
発揮することができない。心が動揺をしてしまう、または、狂った智慧とも
なりかねない。
禅定のない智慧もダメであって智慧のない禅定も不十分である。
この二つは非常に大切な問題です。
心を一点に集中をさせる、臍下丹田に集中をさせる、心を散乱しないようにする。
公案なら公案、無字なら無字で一枚になる。それでも、また、心が動揺を
してしまったり、集中が十分でない場合は、自分の心の様子を冷静に
観察をする。これも、『天台小止観』に説かれている。
歩きながら足が上がる下がるのその動きをよく観察する。さらに、呼吸の
出入りの様子を観察をする。これは、心を観察するための準備でもある。
足の動きの方が大きな動きですから観察しやすい。さらに微かな呼吸の様子を
観察し、そして、さらに、自分の心の様子を観察する。
いろいろな念というものは、確かに浮かんでくる。それは、止むことはない。
しかし、浮かんでは消えていく様子をただ、客観的にずっと観察をしていく。
すると、念や思いに引き込まれてしまわないように、あくまでも冷静に
観察をし続けていけば、それらは、どの様な念であろうと、一瞬のうちに
生じては滅すを繰り返しているだけで、何ら実体のない、いわゆる無常であると
わかる。無常であるから、とらわれるものでないということが観察をすることで
見えてくる。
そして、観察が出来るようになると、なお、一層、禅定が深まるようになる。
禅定が深まるとなお、心の様子が観察することができるようになる。
そのようにして、禅定と観察、禅定と智慧、止と観とを平等におさめていくと
心の底から、深いところから、こういう和らいだ気持ち、いくつしみの気持ち、
落ち着きが沸々と湧いてくる。
生きとし生けるものに対する思いやりやいくつしみの心が自然と湧いてくる
ということが『天台小止観』に説かれている。臍下丹田に心を落ち着ける、
心を一つに集中をさせる止の修行と心の移り変わりの様子を観察する智慧
の修行とを実践をしていけば、深い禅定に入ることができて、そこから、
生きとし生けるものに対するいくつしみの心や思い遣りの心が湧いてくる。
これが私たち大乗仏教の大事なところです。
{平成30年4月26日 横田南嶺老師『武渓集提唱』}