「自ら毒を飲むようなもの」 一日一語157
横田南嶺老師が昨日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
仏心・仏性というのは、すなわち、我が心である。これを逆にしても同じで
我が心は、すなわち、仏心であります。この我が身が仏様と寸分も違うものでない
ということでありますが、私たちは、それに知らずに気づかずにいる。
その様子は、あたかも、素晴らしい宝の珠(たま)を抱いていながら、
その宝の珠を自分が持っていると気が付かずに、貧しい暮らしをしながら、
あちらこちらと物乞いをしてさまよい歩いているようなものである。
何も人に物を乞う必要はないのだ。自分自身の持っている宝の珠に
気が付けば、それでよいはずである。
また、そのことは、あたかも、素晴らしい味のする醍醐(だいご)や
甘露(かんろ)を持っていながら、毒薬を飲んでいるようなものである。
素晴らしい醍醐というものを持っていながら、それを食べようとせずに
味わおうとせずに、外の毒薬ばかりを舐めている。それは、自分の身を
傷めるだけであります。
そんなことは、愚かな道理だということがすぐにわかるのでありますが、
しかし、お互い、本心は、仏心・仏性であるということに気が付かずに
私たちが普段、人を見ては、怒り、憎しみ、妬みの心を起こしてばかりいるのは、
これは、まるで、毒薬を飲んでいるようなものだ。
怒り、憎しみ、妬みの心というものは、心にも身体にも良いものでは、
ありません。せっかく、仏心を持っていながら、その仏心を見ようとせずに、
仏心を味わおうとせずに、他人ばかりを見て、外の世界ばかりを見て、
怒り、憎しみ、妬みばかりを起こして、競争心、闘争心、むさぼりばかりを起こして、
それによって、自分の心を痛めつけている。そういうことによって、身体にも
不調をきたしていくんでありましょう。
あたかも、毎日、自分で毒薬を作って毒を飲んでいるようなものだ。
せっかく、尊い仏心を備えていながら、自分で毒を作り出して、自分で
毒を服用して、自分で心や身体の具合を悪くしている。
自分がこういう愚かなことをしていると気づければ良いというのが、
盤珪禅師の教えです。そういうことが愚かなことであると気が付いたならば、
自分から好んで毒薬を飲むことはしなくなる。
これが毒薬であるとわかれば、わざわざ、毒薬を飲もうとは思わない。
これが毒薬であると知らないから、毒薬を飲んでしまう。
怒り、憎愛、執着などは、これは、毒薬のようなものであると
気づくことが肝腎であります。
そして、めいめいが持っている仏心・仏性に気が付いている方が
よっぽど幸福に生きる道であります。
怒り、憎しみ、妬みを起こしていれば、自分の心身を痛めます。
これは、好んで毒薬を飲んでいるようなものだと自分で理解することが
大切です。
盤珪禅師は、これを「身の上の批判」と呼んでいます。自分の身の上に
おいて、自分がどういう愚かさを繰り返しているか、よくわかれば、再び、
自分から毒薬を飲むようなことはしなくなる。というのが、盤珪禅師の教えです。
(平成30年1月7日 日曜坐禅会「盤珪禅師語録提唱」)