「宗教、宗派とは?」一日一語152
円覚寺総門付近の紅葉の様子です。
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
最近、京都の三千院門跡門主で、懇意にさせていただいている
堀澤祖門大僧正より新刊本『枠を破る』をいただきました。
その本の中で、大僧正は、次のようなことを仰せになっています。
宗教の根本には不安というものがあるのである。そして、現代の時代に
おいて、これだけものが豊かになり、経済的に発達し楽な暮らしになっても、
人間の不安というものは、根強く残っているのである。
むしろ、なお、一層、不安感というものは、募っている。にもかかわらず、
現代の仏教界においては、寺離れということが言われている。本当であれば、
つまり、そのような不安がつのっているのであれば、不安を抱いている人は
伝統仏教の門をたたけば良いと思うが、しかし、そうはなっていない。
なぜであるか?宗教や宗教家と呼ばれる人達が自分の宗教や宗派の教えに
縛られている。同じ宗派の教えには門を開くが、それ以外には固く門戸を
閉ざし関心すら向けようとしない。
元来、お釈迦様をはじめ、真実を求めた人達は、いかなる宗教にも属さなかった。
宗教家ですらなかった。真実を求めた。人間の不安というものを痛切に感じて
ひたすらに自分自身の生存の問題を深く追究していった方々である。
その生存の根本、不安を根拠にとことん追究をしていくことだけに
命を懸けたのが、お釈迦様をはじめ、代々の祖師ではなかったのか。
宗教とは、実に宗教心に他ならない。それは、純粋に求める心のことである。
各人が各人の生存の根拠、生きているということの根拠を純粋に
求め続けることが宗教心である。
この宗教心や求道心を失って、すでに出来上がった宗教や宗派に乗っかって
いるだけでは、宗教家とは、もはや言えないであろう。
宗教家もしくは、宗教家たるものは、今現に今この瞬間に自己の真実を
求め続けているかどうか、そのことを自ら問わなくてはならない。
(平成29年11月20日 僧堂 月並大攝心 初日提唱より)