「公案禅の問題とその対策」 一日一語128
<円覚寺山内・黄梅院にて>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
修行というのは、寝食を忘れるほどに打ち込むということは、
まず、第一であることは確かではありますが、しかし、そのように
熱を上げて打ち込むだけですべてが片付くわけではありません。
我々、公案禅では、何でも成り切れ成り切れと言います。特にこういう
臘八大攝心では、全身全霊の力で一つに成り切っていく。その力が原動力と
なって煩悩、妄想を打破していく大きな力がついてくることも確かなことです。
ただ、それが行き過ぎて脱線をしてしまうと、これは、恐ろしいことに
なってしまいます。何でも盲目的になってしまって突き進んでしまうと
これは、大きな過ちを犯してしまう。
円覚寺開山・無学祖元禅師がまだ中国で修行中の頃、石渓心月禅師の住持するお寺に
怪石という僧がいて、石渓心月禅師が住持であったにもかかわらず、
修行僧は誰も石渓心月禅師に参禅をせずに、その怪石というのが修行僧を
煽り立てたという話があります。
それが無字の工夫をやっていたのですけれど、行き過ぎてしまいます。
異常なまでに、まるで神がかりのようになって、大きな「無」の字を掲げて
張り出して、100~500人の修行僧が立ったまま、あるいは、坐ったまま
「ムームー・・・」と大声で叫びような修行をしていた。
中には、高い崖の上から「ムー」と叫んで飛び降りて、けが人も出るは、
果ては、死人まで出てくる。そして、怪石は、また、言う。「本当の無字になったならば、
たとえ、死んでも目だけは残る。」と。
邪教は恐ろしいもので、それで、修行僧を煽り立てて、きちがいの集団のように
なってしまった。成り切るということは、大事でありますが、しかし、ちゃんと
教えを学んで冷静に観ていくという「観(かん)」という眼(まなこ)もまた
必要であります。
無学祖元禅師は、そのような気狂いの修行を「まるで蒸し風呂かサウナの中に
入って、ただひたすら我慢して、辛抱する。そうすると蒸し風呂から出てきたら
何か爽やかな気持ちになるのと同じだ。
一時的に「ムームー・・・」やって、そうして、何か修行をしたかのような
気持ちになる。あるいは、その途中で様々な心理現象を体験する。そんなものが
悟りであると勘違いしたならば、これは、公案禅の大きな誤りである」と
縷々と論じてくださっています。
時には、公案がいくらかの人を誤り、たぶらかしてしまうこともあります。
公案をやるものは、公案の良いところとそれぞれの短所・欠点を認識して
おかなければ間違いを犯しかねません。
何に於いても、これですべてが片付くというような原理主義や特効薬の
ようなものは、ありません。もちろん、趙州の無字のような公案のおかげで、
それこそ、タワシで汚れをこすり落とすようにして、さっぱりとした心境に
なることも、これまた、事実です。
しかし、やみくもに、公案がすべてであるという見方をしても、これまた
大きな過ちを犯してしまいます。その為には、教えをよく学ぶことです。
お釈迦様のお悟りというのは、「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の三法印を
出るものでは、決してありません。
とりわけ、無我というところが一番重要になって参ります。しかし、
この無我というのが決して無我夢中になるということであろうはずがない。
まして、いわんや、自我を放棄する、捨て去るというけれど、捨て去った
気になっているだけで、残った自我が逆に増大をしてしまう人が多い。
自我を正しく体感をして自覚することが大切であります。これが
「覚」「自覚」の大切なところです。公案禅による集中をしていくという
ことと教えを学んで冷静に自覚をしていくということと、この2つを
きちっと両輪のごとくにしていかなければ、公案禅、禅は間違った方向に
行ってしまいます。
ですから、禅の修行というものは、そう簡単に一筋縄でいくものではない。
長い年月をかけて根気よく修めていかねばならないことを強調しなければ
なりません。
(平成28年12月7日 仏光録提唱 54:00)