「新説・臨済の四料揀」 一日一語 127
<法堂跡>
横田南嶺老師が先日の遠諱法要で提唱されたことをまとめてみました。
「臨済の四料揀」という教えがあります。
四料揀とは、一、奪人不奪境 二、奪境不奪人 三、人境俱奪 四、人境俱不奪です。
(これを現実の生活に活かせるように解釈しますと)一つ目の「奪人不奪境」とは、
お寺にはいろいろな悩み事を抱えて相談に来る人がいる。いや、相談ではなくとも
いろいろな人がやって来る。そこで、まずは、自分を殺す。自分を奪って相手を
奪わないことです。自分を殺すとは、自分の意見や自分の考えをを全く出さずに
外の景色を見る。「ああ、良い天気ですな」や「この頃、シュウメイギクが咲いて
きましたな」と言ったり、または、相手の置かれている状況をことごとく認めて
あげて、聞いてあげる。
今日、傾聴という言葉が使われていますが、こちらを殺して相手を活かして
よく理解をしてあげる。これが、「奪人不奪境」です。まず、お茶でも出して
ゆっくりと相手を認めてあげる。いきなり、お説教をしようとするから
問題が起こるのだと思います。
次に二つ目の「奪境不奪人」です。もちろん聞くこと、傾聴をすることは
大事でありますが、それだけで終わったならば、救いになりません。
一時的に気持ちは、安らぐかもしれませんが、本当の解決にはなりません。
それこそ、今度は、こちらが主体となって、「それは妄想の世界ですよ」や
「あなたの思い違いですよ」「あなたのわがままの為に様々な苦しみを
作り出しているのですよ」など、お釈迦様の説かれた真理である、諸行無常
諸方無我を堂々と説いてあげる。
三つ目は、「人境俱奪」です。「奪境不奪人」に留まっていては、単なる
お説教に終わってしまいます。そこで「人境俱奪」です。これは、禅たる
ゆえんでありましょう。「では、お互い坐りましょう」「お互いに坐って
我もない人もない、我も世界もないところにいっしょに坐りましょう」の世界です。
明治の終わりから大正に活躍された岡田虎二郎という正座法を薦めた人が
いらっしゃいますが、この人は、お説教はせずに、心の病にかかっている人が
来るといっしょに坐りました。そうして、坐り抜いて、病を治したということが
伝わっています。禅の布教は、ここにあろうかと思います。我も世界もない
ところに俱(とも)に坐る。そこで初めて、本当の安らぎが出てくるんで
ありましょうし、禅の安心はここにありましょう。
さらにそこにとどまらずに、四つ目の「人境俱不奪」です。
俱に成りきって坐ったならば、お茶を淹れてあげて、ゆっくりとお互いが
語り合う世界です。「人境俱不奪」の世界は、我も活かし相手も活かす。
「ああ、そうですか」とこちらの思いも聞いていただく、向こうのことも
聞いてあげる。人も境も活かす世界です。
こうしてみると、為人度生の場においても、四料揀は大きな意味があるのは
ないでしょうか。
私たちは、臨済宗と称しておりますが、果たして、臨済の修行とは何であるか?
何を修行し何を修めるのであるか?です。
そして、臨済の教化とは何であるか?こういうことを学んでいく上において
臨済録は、お互い、大いに学んで活かしていけるものであります。
そうでなければ、臨済宗の看板を掲げている意味がないのではないかと
思います。どうぞ、この大遠諱をきっかけにして、さらに一層、臨済の禅の
奥深いところを学んで一層研鑽していただきたい。
臨済の修行、日々の修行、禅僧としての修行においても、また、それぞれ、
和尚様方の教化の場においても、臨済の禅を大いに鼓揚していただきたいと
願うところでございます。
(平成28年10月28日 大遠諱 臨済録提唱 26:40)