「タワシで磨く」 一日一語 126
<円覚寺専門修行道場で行われている臘八大攝心(1年で一番厳しい1週間に及ぶ
集中坐禅修行期間)も中日をすぎました。>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
公案(禅の問題)というのは、無に対する何か答えがでるというものではない。
「ム~ム~・・・」と(腹圧をかけながら呼吸に集中することを)朝から晩まで
やることによって自分の心の中を摩擦するのです。自分の心の中をこの無の字で
磨いていく。
「公案というのは、石鹸みたいなものだ」という言葉がありますが、それで
自分の心を磨くのです。タワシみたいなものだと言っても同じです。
タワシのようなもので「ム~、ム~・・・」と(心の中で)やっていく。
その無がどうこうというのではない。その無の字で、一生懸命、力を入れて
自分の心の中を磨いていく。
ここで大切なことは、力を入れないと磨いたことにはならないということです。
私たちの心というのは、業障(心の汚れ)が染みついている。それは、スポンジ
みたいなもので軽く(表面を)なぜたって取れやしない。
何べんやったって、何年やったって、力を抜いてやったら、染みついたもの
こびりついたものは取れないのと同じです。全身の力を持って「ム~、ム~・・・」と
やってこそ、また、爪でかきむしるようにやってこそ、こそぎ落とすことできるのです。
そして、心の中を摩擦していく、業障を払いのけていく、自分の心の汚れ、染みついたものを
こそぎ落としていくことで2つの心地よい心境を得ることができる。
その2つというのは、公案に参ずる気力とその公案を捨てる気力です。
公案に参ずる気力というのは、無字の中に自分の持てるものを全部込めていく
大きな気力です。そして、公案を捨てる気力というのは、無字一枚に成りきった
ところで、今度は、その無字を、かためたものを全部丸ごとポイと捨ててしまう
気力です。
(無字一枚になっても、その心境に執着してはいけない)それは、掃除機で吸い取った
ごみを大事に抱えているような、愚かなことです。それをポンと捨ててみて「あー、なるほど、
この部屋は広かったなあ、きれいなところであるなあ」とわかるのです。
(平成28年12月5日 仏光録提唱 41:50)