「公案という刀」 一日一語 125
<仏殿前広場>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
公案(禅の問題)について、鈴木大拙先生は、ご自身も深く公案に参ぜられて
それから、先生は学問もありましたから、公案についての意義を上手に表現して
くれています。
「趙州の無字や庭前の柏樹子(という公案など)は、いかにもくだらないことのようで、
単なるなぞのようにも見える。こんななぞのどこに仏教があるのか、どこに禅が
あるのかと言われよう。しかし、それは表面的な考えである。
隻手の声(という公案)がわかれば、宇宙存在の大問題が自ら解けるのである。
これらの公案はすべて常識的な考えを打ち払う刀である。」
大拙先生は、こういう表現をされました。「私たちの常識的な考え方を打ち払う、
断ち切るという刀である。しかし、この振り上げられた刀を外からばかり
見ていては、刀はわからない。刀自身にならなければならない。
隻手の声を聞こうとしては、聞かれない。隻手になることによって
それを聞かれる。刀で斬られることを恐れて、その斬る刀そのものを自分に
ひきたぐることをしないから、公案の意味がわからない。
とにかく、参禅をする、禅の修行を始めるからには、今まで持っていた考え
今までやってきた考え方というものをどうしても、徹底的に捨てなけれならない。
それには、公案という刀が必要である。
どうして公案の刀がそういうものを斬ることができるのか?そのような考え方をも
断然と捨てなければならない。そんな批判は、今までの考え方でのみ成立するもの
であって、そのような考え方では、禅をやることは到底不可能である。
それで刀そのものにまず成りきることが大事である。これを正念工夫、三昧、
成りきるというのである。私たちは、いつも過去や未来のことで縛られていて、
自由を得ない。刀で斬られることばかりを考えて斬ることを知らない。
斬る立場は、斬る立場でこそ自主自由が出てくる。向こうを見ている限り
自由は得られない。縛られまいとするのであれば、こちらから縛る方に
転ずるのが早道である。」
公案をやったものには、なるほど大拙先生は、上手い表現をしてくれていると思う
ところです。
(平成28年12月4日 仏光録提唱 17:21)