「そんなものは、どこにも見つからない」 一日一語122
<今日の洪鐘参道入口にあるイチョウ>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
見る時は、何者(主体)が見ているのか?ものが聞こえてくる、
聞いている時は、何者が聞いておるのか?寒い、冷たいを感じる時に
何者が感じておるのか?あるいは、日常の忙しい時に、ものに心が
奪われてしまう時、または、外の世界に心が引きずられてしまう時、
何者が奪われるのか?何者が引きずられていくのか?これを24時間
疑う、これが内に向かう修行です。これが諸仏の行われた道です。
外に向かうか、内に向かうかという心の向けようによって
外に向かえば迷いを引き起こしていく。平等と差別(しゃべつ)と申します。
外に向かう、これが差別の世界です。外に向かってものを見れば、柱あり、
敷居あり、畳あり、男あり女あり、老人あり、青年あり・・・と外に向かえば
万般、差別の世界です。
無になるということは、(この差別の世界を全部否定していこうとすると
これはたいへんなことでありますが、)くるりと向きを変えて、聞く者は
何であるか?見ている者は何であるか?と内に向かうことであり、そこが
平等の世界です。
『抜隊得勝禅師法語』に「一切の声を聞く主(あるじ)は何者であるか?
これを求めていけ」とあります。その何者か、それこそ、諸仏衆生の本源、
仏様の一番の根本である。諸仏と衆生との隔てのない根本であると説かれて
います。
この声を聞くものは何者ぞと、立っても居ても坐っても、これを求めていく。
こうして、内にむかってみれば、これは平等の世界です。
抜遂禅師は「聞く者も知らず」その聞いているもの、そんなもの、見当たらない。
と結論を言っています。聞く者(主体)は、何者ぞという意識すら尽きてくる。
それでも、いよいよ、深く聞く者は何者ぞと求めていくと、聞こえてくるものと
聞いている者との隔てがなくなって、我(われ)というものはない、つまり、
聞いている者を見つけようとしても、そんなものは、どこにも見つからない
という結論になる。
この心が、ただ、広々と十方世界に広がっている。しかも、十方だ世界だと
名付けるものもありはしない。これを平等の世界といい、仏心に世界とも
呼んでいるものであります。
(平成28年11月25日 東嶺和尚法語 11:00)