「見ている者(主体)は何者か?」 一日一語121
<うっすらと雪化粧した妙香池>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
迷いというのは、見たものや聞いたことなどに心をかき乱されることです。
菩薩の修行というのは、ものを見たならば、見る者(主体)は何者であるかと疑う。
何か音や声を聞いたならば、その音を聞いている者(主体)は、何者であるか
疑うことだと東嶺和尚は説かれています。
『臨済録』には、「你(なんじ)、祖仏を識(し)ることを得んと欲(ほっ)すや。
你が面前聴法底これなり」とあります。仏様とは何かと知りたいか?それは、
今、私の目の前で、ここで話を聴いている者(主体)であると臨済禅師は説いています。
仏とは、自分の外にあるのではない、この話を聴いている者(主体)が仏なのです。
また、『臨済録』には「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す」
とあります。
臨済禅師は、仏様を「無位の真人(むいのしんいん)」と表現されました。
世間の地位や学歴や財産のあるなしのどによって色付けされることのない本当の人、
素晴らしい人、これが仏であると説かれました。
「常に汝ら諸人の面門より出入す」というのは、面門とは感覚器官です。
目でものを見て、耳で音を聞いて、鼻でにおいを嗅いで、舌で味わって、
身体で感じて、心であれこれと思う。
では、その見ている者(主体)、聞いている者(主体)は、何者であるか?です。
耳や肉体や内臓が聞いているのでない、それは、ただの道具にすぎません。
この何者(主体)が聞いているのか?を疑うのです。
臨済禅師はそこで「これ你が目前歴歴底、一箇の形段(ぎょうだん)勿(の)うして
孤明なる、これ這箇、説法聴法を解す」と説かれます。目の前で、はっきりしているが
何の姿・形がなく、それでいて一人明らかなるものがある。それが今、話を聴いている。
それに気が付いた者は、仏様と別物ではない。
その何の姿・形のないものは、どういうものか?
臨済禅師は、「十方に通貫す」と説いています。こんな小さな体の中に
おさまっているものではない、十方世界に満ち足りたものであると。
それは、姿・形はないが、この目でものを見ている、耳で聞いている
鼻でにおいをかいでいる・・・。それは、いったい、何者であるか?と
自分の心の内に向かって、心の向きを(外側から)180度回転させる。
「寒いな、今日は冷たいな、かなわんな・・・」ではなく、
その寒いと感じている者(主体)は、何者か?何が寒いのであるか?
と自分に問いかけることです。
(平成28年11月24日 東嶺和尚法語 26:00)