現前している様子を自ら自覚する 「一日一語115」
シュウメイギク
横田南嶺老師が今日、入制大攝心2日目に提唱されたことをまとめてみました。
仏は、自分の外にあるものではありません。今、そこでこの話を聞いているもの
そうなのです。聞いているものがそうなんだと言われても、まだ、どこにあるかしらと
思って、きょろきょろしてしまう。禅宗の祖師方はそこで、「まだ、気が付かないのか!」
と言って、「これだ!」とピシャと叩いて修行僧に気が付かせる。
仏法は、誰にでも例外なく、今、ここに十二分に備わっている。ということは、
歩いている時も坐っている時もご飯を食べている時も、いついかなる時にも
今、そこに十二分に働いているのです。
そうであるにもかかわらず、我々の修行で誤りがちなことは、無字になる
(無心になる)というと、何か別物になるように考えてしまう。何か外に
求めるもののように思ってしまう。それは間違いであります。
そうではなくて、今の自分を観つめることをするのです。
歩いている時であれば、その一歩一歩にはっきりと働いているものを認める。
その一歩一歩の歩みそのものに仏法滴々の大意がありありと現れている。
今、聞いているそこに仏法がありありと現前している。それ以外のものに
なりようがないというところが我々、禅の修行です。その方向を間違っては
いけません。
宝は他にあると言って、努力していって何か特別なものに変わっていくのでは
ありません。この只今の有り様、このこうしておる所に成りきっていくより
他に道はありません。
そこで坐ったならば、一呼吸一呼吸に成りきる。歩いている時は、
その一歩一歩に現前していく。現前している様子を自ら自覚する、観(み)つめる
より他に仏法はありません。