「わからない楽しさ」 一日一語109

 今年も、円覚寺境内に山百合(ヤマユリ)が咲き始めました。
 円覚寺専門修行道場(僧堂)では、今日から11日まで制末大攝心
(1週間に及ぶ集中坐禅修行期間)となります。
 横田南嶺老師をはじめ、雲水(修行僧)、居士・禅子(在家の修行者)が
禅堂に籠り、坐禅修行に精進しています。
 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
 禅問答というと何のことやら訳が分からないものとして思われがちです。
しかし、このわからないというところを一つ、大事にして欲しいのです。
 平澤興先生の言葉に「わからないことの楽しさ」というのがございます。
平澤先生が仰せになるのは、「学校でもどこでも、わからないと言うと
それは、いかん(いけない)と教わります。しかし、わからないことでも
素晴らしいではないか、楽しさがあるのではないか?
 考えてみると、私たちは、わからないことばかりだ。私たち人間は、
一番小さい原子核のこともわかっていない。大きな宇宙のことも
わかっていない。宇宙だけなら良いけれど、私たちが住んでいる地球でも
地面の下のことはわかっていない。
 わからん、わからんづくしでは、寂しいことではありますが、しかし、
わかっているつもりになっているよりは、わからんということが本当に
わかると楽しく心も落ち着くように思われる。」
 実に平澤先生のこの言葉は、禅的な味わいのあるものであります。
わからんということを無理に理屈をつけて説明してわかったような
気にさせたり、気になることは、愚かなことです。
 こういう臨済録のような語録もそうです。臨済禅師の境涯は
やればやるほど、私たちには、及びもつかない。わからないことが
まだまだ広がってくるものです。
 学べば学ぶほどわからないということがわかってくる。
そのわからないことこそ、むしろ、楽しさを感じるものです。
そのような気持ちで精進していただけたらと思います。
 
            