塵点劫(じんてんごう)「一日一語 100」
<新しいいのちと光>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『法華経』に塵点劫(じんてんごう)という思い計ることすらできない、
久しく長い時間を表す言葉が出てきます。この法華経の物語が説かれたのも
我々の思い込みを打ち砕く為であります。
私たちが「これは自分だ!」と意識・分別をしているものは、
たかだか、この数十年の意識の働きにすぎないません。
たかだか、数十年の意識の働き、または、習い覚えてきた経験と知識の
かたまりだけを「自分である!」と思い込んでいる。
その自分を守り、その自分を飾り、その自分をもっと立派なものに
見せたいと思って、様々な修行をしたとしても、それは、我見、我慢、
執着です。
臨済禅師は、「面前聴法底」と言われました。今、ここにこうして
話を聴いているそのものは、たかだか、数十年の意識や経験、知識の
かたまりではない。ずっと遠い昔から連なっている、大いなるいのちの
流れであると。それがここでこうして聴いているものであります。
この私たちの意識の根本がどこに到るのであろうか、探し求めていくと
これは、思い計ることのできない不可思議のところとなります。
三千塵点劫という、本当に計り知れない遠いところから、私たちの
このいのちは、ずっと連なっている。それが、私たちのいのちのおおもと、
源です。それに少しでも触れるというのが坐禅の修行です。
「見性成仏」という言葉があります。今、ここにこうして話を聴いている
その本性は、何であるか?これを明らかにしなければなりません。
私たちが自己だ自己だと思い込んでいるものは、たかだか、二十数年
あるいは三十数年、あるいはせいぜい長くても百年のものです。
計り知れないほど長い塵点劫の長さの時間から見れば、一瞬の泡の
ごときものであります。この泡のごときものに執着するのではなくして、
この泡を打破してその根本にある広い世界に目覚めることが肝腎です。
塵点劫のかなたよりずっと貫いているものが、今、ここのこうして
生きてこの話を聴いているのです。これをはっきりさせて「なるほど、
仏はこいつだ!」と気づき、「これ以上、外に求めるものはありはしない!」
とこう目覚めたならば、何も特別に求めようとしなくても、自ずからおさまって
いく。強いて、戒律を意識しなくても自然と調って暮らしていくことができる
というのが臨済禅師の教えであります。
{入制大攝心・最終日 提唱より}