一日一語 58
<池に映る黄葉 大方丈・裏庭にて>
禅は単なる禅語を覚えてその言葉を拈弄するものでは、決してありません。
その言葉に於いても、必ず実体験がなくてはならない。
祖師方の修行ぶりというのを学ぶほど、今日の我々と比べて、私たちは、
深く反省しなければなりません。
臘八大攝心は、別名「命取りの攝心」と呼んでいますが、これも今では
すでに言葉だけになっています。命をかけるということは、我々では
到底、及び難いことです。
しかしながら、少なくともお釈迦様や仏光国師というような歴史に
名を残した方々は、「朝に道を聞かば 夕べに死すとも可なり」といいますが
まさに命をかけて道を求めました。その命をかけて求めた道だけがこうして
今日に伝わっています。
大悟というのは、決して一遍ですべて片付いて終わるものではなく
人間の心というものは、そのように単純なものではありえない。
迷いながら、つまづきながら、求めながら、失いながら、一歩一歩
新たな気づきというものが得られるものであります。
{平成27年 臘八大攝心最終日 『仏光録提唱』より}