ただ一枚の光
入制大攝心 5日目
横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』を学んでいくのに注意しなければならないことは、見性の眼を具して
読んでいくことです。心の本質、本性とは何であるか?ということを探究しなければ
なりません。
臨済禅師は、最初、仏教の学問を学んでいましたが、それは薬の処方箋のようなもので
「本当に自分の心を安らかにしれくれるものではない」と見切りをつけ、禅の道に
参じました。黄檗禅師や大愚禅師のところで修行をしなるほどと体得をして、
さらに江南地方を行脚して大勢の禅僧に見えて研鑽を積みました。
のちに臨済禅師は、仰せになっています。
「是れ娘生下(じょうしょうげ)にして便ち会(え)するにあらず、
還って是れ体究錬磨して、一朝に自ら省す」
つまり、心の本質、本性、尊さというのは決して生まれたままでわかるものではない。
自分自身、体で実践をして体得して、初めてわかるものである。
『論語』に「子曰わく、我は生まれながらにしてこれを知る者に非ず。
古(いにしえ)を好み、敏(びん)にして以てこれを求めたる者なり。」
とあります。孔子ほどの人ですら、生まれながらに何もわかったわけではない。
昔の学問を学び人一倍、一生懸命努力をして初めて気がついたのです。
こういう語録を手がかりにしながら、心の表面に映る、人間の考えや思い、見解に
振り回されるのではなく、様々のものを映し出す心の本質、本性が何であるかを
探究していくことが肝心です。
そうすれば、この我が心の本性こそ素晴らしい宝であったと気がつくはずです。
そう気がついて周りを見れば、あらゆるものは、皆、宝の珠であったと見えてくる。
あらゆるものが光、光明を放っていて、その光明が最後一つのところに解け合って
ただ一枚の光になってくる。
これを仏心の光明、これを臨済の宗旨と呼ぶ。みなさん方には、ぜひ、
これを体得していただきたいと思います。