ともに忘ずる
-提唱中の横田南嶺老師-
円覚寺派管長・横田南嶺老師が一昨日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
世間で迷ってる人というのは自分の外の世界について求めて回っている。学歴や知識、名誉と
いった外のものを追い求めています。また、坐禅など仏道修行しようとする人は自分の内の
心を求めようとしています。自分の心をもっと鍛えようとか、もっと立派な心にしようとか
心をもっときれいに磨こうとかいろいろと考えます。
後者は一見、立派そうに思えますが重要なことは、外の世界も自分の心もともに忘却
することなのであります。
外の世界に自分の心が満足するものを求めるはからいと、逆に自分の心の内に何か満足するものを
求めるはからいをともに忘れてしまったところが誠の仏心です。
外の世界・世間のことを忘れようとすることはそれほど難しいことではない。こうして、
皆さんは日曜日に早起きして坐禅会に来ています。ところが、内である自分の心の問題に取りかかろうと
するとこの心はそう簡単におさまらない。何とか自分の心を立派にしてやろうとか無心になるにはどうしたら
よいのかと求めてしまう。求めてしまったら、また、迷いです。
道元禅師に
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。」
という言葉があります。しかし、これが難しい。
そう簡単に心を忘じたり自己を忘ずることができないのは、虚無主義に陥ってとらえるものが
何もなくなってしまうからです。
人間というものは何かにしがみつき「何かこれ」というものを得ようとする性質です。
しかし、しがみついているものにずっとしがみついていられるわけではありません。
どんなものもいくらしがみついていようがいずれは移り変わりこわれてきえてしまいます。
「何かこれ」というものを得てしがみついてついていろいろと求めるのではなく、そういうものを
全部手放して大きな世界にあることに気がつくことが大切です。
{平成26年9月7日(日) 日曜坐禅会 伝心法要提唱より}