虫をとる子どものたとえ
本日、円覚寺・大方丈にて行われた日曜坐禅会は、100名もの方が
ご参加くださいました。誠に有り難うございました。
横田南嶺管長が日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
普段、私たちは何かを求めて、何かを手に入れようとしてあくせくしています。
それはお金であったり、業績であったり、地位であったり、あるいは「悟り」で
あるかもしれません。
子どもが虫をとるというたとえ話をします。子どもが一生懸命虫を捕ろうとしている。
子どもは虫を捕ってお母さんに見せて驚かせたり喜んでもらおうと一生懸命虫を捕ろうとします。
しかし、本当にお母さんにとって大事なもには何であるか?です。お母さんの目から見れば
子どもが捕った虫が大事なものではありません。虫が捕れようが捕れまいがたいした問題ではない。
その虫を捕ろうとしている子どもが何よりも大事なのです。
どんな立派な虫を捕まえてくるより、親の目から見れば子どものいのちほど尊いものはないのです。
ところが子どもはそのことに気がつかずに、何か一生懸命ものを捕まえなければ、立派なものを捕って
こなければ申し訳ないと思いこんでしまっている。また、まわりの人もそうけしかている。
そこで子どもは「虫かごの中に立派な虫をたくさん捕らなければ意味がない」という考えに追い込まれ
それができなければ「自分はもうダメかもしれない」と落ち込んでしまう。
しかし、親からみれば、無心に虫を追いかけている子どものいのちが何よりも尊いのです。虫の話を
皆さんに置き換えてください。いろいろな話を聞いてわかろうとする、あるいは一生懸命坐禅をして
悟りという虫を捕ろうとしています。
悟りという虫が捕まろうが捕まるまいがそんなことはたいしたことではありません。大切なのは
何を求めているのかでなく、何が求めているのか?なのです。捕獲した虫が大事なのではなく、
その虫を追い求めているものは何であるか?です。この話を聞いて、わかる、わからないが問題
なのではなく、この話を聞いているものは何ものであるか?に目を向ける。
私たちは、いろいろなことを知ろう、得ようとしますが、それは、あたかも子どもが虫かごに
虫を捕ろうとしているようなもの。たいしたことじゃない。そうじゃない、虫を追いかけているもの
捕ろうとしているものに本当の値打ちがある。追いかけているものは何ものか?今、こうして
坐禅に来て坐っているものはなにものか?今、こうして話を聞いているものは何ものか?
それらに目を向けてみることが大事であります。
{平成26年8月17日(日) 日曜坐禅会 伝心法要提唱より}
(後記)
次回の日曜坐禅会は8月31日(日)となっております。
横田南嶺管長による伝心法要提唱もございます。
また、初心者の方に、簡単な坐禅の仕方の指導の場も設けました。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。
午後6時からは円覚寺山内・北鎌倉幼稚園でおじぞうまつりでした。
千灯供養の儀式が行われました。