雨だれの音
横田南嶺老師が本日の僧堂の制末大摂心(初日)で提唱されたことをまとめてみました。
今日は梅雨時の雨降りです。
いま外でポタポタポタポタ落ちている雨だれの音が皆さんにはどのように聞こえますでしょうか。
「耳聞は眼聞の好(よ)きに似(し)かず」と正受老人崇行録にあります。
この眼で聞く、耳で観るとは一体どういうことでしょうか。
私たちの耳に音が聞こえる様子というものをよくよく観察しますと、私たちが音と思っているものは、実は鼓膜の振動に過ぎません。
心や知識が鼓膜の振動を認めてはじめて音だという風になる、そうした現象に過ぎません。
しかし人間には、言葉にはできない、語れないほどの深い悲しみ苦しみというものがあります。
人の本当の苦しみは言葉にはならない。耳で聞こえるようなものではありません。
その声なき声、声なき苦しみをこの眼でしっかり見届けてあげる。
眼で聞く耳で観るとは、そのようなはたらきです。観音様のはたらきです。
では、どのようにすればよいのでしょうか。
聞こうとかどうしようとかいう計らいを止めて聞いてみる。
そうすると、自分だという思いが抜け落ちてくる、雨だれと自分との境がなくなってくる。
雨だれの音がはっきり聞こえてくる。
ただ、ポタポタポタポタ、ポタポタポタポタ。
聞くままに また心なき身にしあれば
おのれなりけり 軒の玉水 (道元禅師)
そうしたはたらきを身につけることが、私たちお坊さんとして一番大事なことであります。