求める心
横田南嶺老師が今日の淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
私たちは坐禅をしたりお経や語録を学んで修行をし、迷いを抜け出ようと一生懸命努力します。
しかし、こうした修行をし悟りを得ようと計らう心こそが生死迷いの元であり、地獄の業を造り出すものであると、臨済禅師はおっしゃいます。
何故でしょうか。
居士林でも、「坐禅中です お静かに」のような貼り紙を外に出したりします。しかし静寂を求め、うるさいと言って分け隔てをする心で周りを見ては、迷いになります。
土は、上を馬が通っても牛が通っても汚いなどとは思いません。この土のように、選り好みしないこと、余計な計らいをしないことこそが無心なのです。
無心は、得ようとして得られるものではありません。
これ以上に一体何を悟る必要があるのか。
求める心を止(や)めよ。
今こうして話を聞いているもの、もって生まれたこのいのちこそ、そのままで十二分に貴いのだ。
そのことに気づくことが大切であると、臨済禅師は説いてくださいます。