大用国師誕生の地
2月24日(月)
大用国師・誠拙禅師誕生地の碑です。
円覚寺派管長 横田南嶺老師が、先日、宇和島を訪れた際にお参りになりました。
大用国師のご生涯を引用してまとめてみました。
「僧誠拙は延享2年(1745年)に下灘浦之内柿ノ浦(現北宇和郡津島町柿ノ浦)に生まれ、
生母の再婚に伴い3歳から7歳までの5年間家串浦で育った。
ある夏の頃、誠拙が縁側で遊んでいると、六部姿の回国僧がやってきて頭を撫で、
この子は名僧になる相が現れているから小僧に出されたらよいと言った。
母はこの言葉を聞いて臨済宗妙心寺派仏海寺(宇和島市妙典寺前)の小僧に出した。
時に7歳、師は霊印和尚であった。
誠拙13歳のとき、藩主伊達村侯が不意に寺を訪れることがあった。霊印和尚は狼狽して迎え、
あいにく小僧達が不在で十分な応接ができないため気をもんでいると、誠拙が遊びから
帰ってきたので叱りつけて拳骨をくらわした。誠拙は殴られたことに不満であったが、
和尚に言われる通り殿様の肩を揉んでいた。殿様が不審に思い、わけを問うと和尚に殴られた
ことを語り、殿様がどんなに痛かったかと聞くので、「この位でございます。」と
殿様の頬を殴った。霊印和尚は万死に値するものとお咎めを待っていたところ、
藩主村侯は霊印和尚を城に招き「昨日の小僧は大器に違いない。鎌倉へ遊学させよ」
と言って旅費まで下賜したという。
16歳にして諸方行脚を志し、各地を歴参の後、道声の高かった月船禪慧に参じようと
現在の横浜市保土ヶ谷にある宝林寺内にある東輝庵を訪ねる。誠拙はそれより月船に随時
すること多年、刻苦精励してその蘊奥をきわめ、ついに月船の印可を得てその法を嗣いだ。
明和8年(1771年)27歳の時、鎌倉円覚寺に登り佛日庵に入り荒廃していた円覚寺の復興に努力した。
31歳の時には円覚寺の長老となった。そして、71歳には幕府の命によって円覚寺189世住持
となった。後に大正天皇から彼の生前の仏教興隆に努めた功績をもって大用国師の師号を送られた。」
円覚寺では、平成31年に大用国師200年遠諱を盛大に挙行する予定です。