自己中を殺せ!
7月10日(水) 制末大攝心・6日目
南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
至道無難禅師に「殺せ殺せ我が身を殺せ 殺し果てて
何もなき時 人の師となれ」という言葉があります。自分中心にものを
考えるその思い・ものの見方こそ、殺し尽くせというものです。
「いかなるか 苦しきものと 問うならば
人を隔てる心と 答えよ」
という歌があります。何が苦しいか?苦しみのもとは何か?と訊かれた
ならば「あいつは好きだ、あいつは嫌いだ」と人を隔てるその心こそ
苦しみのもとであると知れという意味の歌です。
その苦しみを作り出しているのは、相手ではなくて自らの心であると
気づくことができなければ、どこに行こうといつまでも苦しみの生涯を
続けることになります。
自分中心なものの見方こそ自分を苦しめているのだから、その心こそ殺すべき
なのであります。苦しみの道理はただそれだけです。
嫌だ、ねむい、だるい、・・・そんな思いをみんな殺し尽くす、私たちの修行は
それに尽きます。
殺し尽くしたら今度は活かすべきものがあります。活かすべきは、平等のものの見方
慈悲の心に他なりません。
「無」とは、自分中心のものの見方をすべて否定して、すべてを包み込むように
みんなを平等に見る、大きな慈悲の心・仏心であります。これこそが「無」であります。
古人の言葉に「法とは己なきの尊さである」とあります。「オレがオレが」という
自分中心のものの見方をすべて捨ててみれば晴れ晴れしたところが広がってきます。
「自分中心のものの見方の為にすべてを誤解していたんだ」と気がつくことが
強いて言えば「悟り」なのではないでしょうか。そう気がつくと私たちの心は
無限の慈悲に満たされる。
「無垢 無邪気 無心 無防備 笑顔とは
無から生まれるものと思えり」
という歌があります。自分中心のものの見方が尽きて無くなると
「無」なのです。
ところが自分中心のものの見方にとらわれている人はその中に
閉じこもってなかなか、自分で気づくことができません。そんな
自分を克服する修行であります。
クモランと言うそうです。浄智寺さんのフェイスブックで紹介されていたので
選仏場前の梅の木まで見に行ってきました。
確かに名前に通り「スパイダーのようなラン」です。
枝の裏側に本当に目立たぬように地味に、しかし、しっかりと
お花を咲かせております。
このクモラン、着生場所から引き離した場合、絶対といっていいほど
再活着しないそうです。それは、一説には樹皮に棲む菌類と共生関係にあるため
なのだそうです。命のつながりって深いですね。