忍を懐いて慈を行ず
1月23日(水) 制末大攝心・中日
管長様が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
修行だなんだと言いましても、やはり究極のところは、この身に
起こること、現実に起こることをありのままに受け入れることの
できる心の広さでありましょう。
坐禅をしたり、禅の問題に取り組んだりするのも一つの修行で
ありますが、「現実のこの毎日の暮らしをどう生きていくか?」
これが私達の一番の修行であります。
生老病死、誰しも、生まれたからには老いる、病気にもなる、
最期は死というものを避けることはできない。その間、様々な
苦しみというものに責められるのが人生であります。
お釈迦様が言われたとおり、生きている限り、「苦」であります。
思い通りにならない、苦しみは尽きることはありません。
それをどう受け止めて生きていくかが真の修行であります。
「忍を懐いて慈を行ず」という言葉があります。
自分の身に降りかかってくることは、忍しかありません。
耐え忍ぶ。その代わり、自分の周りに対しては慈、つまり
いくつしみ、思いやりを持って接していく。そう、自分で
覚悟を決めるしか他はありません。
自分の身に降りかかってきたものは、どんなものでも受け入れる。
禅の修行は、苦しみのどん底に落ち込んで、そのどん底でニッコリと
ほほ笑むことができること。それが禅の本領であります。
あるとみて なきこそもとの すがたなり
なきをたのしむ こころやすさよ
何にもない所が、おおもとであります。何にもない所から
生まれて何にもない所へ帰って行く。なに、その一時(いっとき)
のことであります。
何にもない所を楽しむ心ができたならば、どんなものが降りかかって
こようとも、ニッコリほほ笑んで受け止めることができる。この忍こそ
修行の本領でありましょう。
そして、周りに対してはとことん、徹底的に慈を行じていく。
これが「行路難」苦労の中を渡っていく一番のよすがであります。