正しいものの見方
9月20日(木)その2
管長様が昨日の坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
臨済禅師は、仏道は長い修行や坐禅、難行苦行をしなければわからない
ようなものではない、それより、「正しいものの見方」をすることが
大切であるとお説きになっています。
正しいものの見方とは、ありのままにものをみることであり、
それをすると、あらゆるものが無常である、常ではない、一瞬も
同じ状態ではないと気づきます。あらゆるものは一瞬一瞬に転じ
変わっていく。何一つとして同じものはないとうのが真理であります。
この無常のままに生きていくことができたなら、何の苦しみも
煩いもありません。しかし、私達は無常の真理に反して、「いつまでも
若くいたい!いつまでも生きていたい!いつまでも、この状態でいたい!」
と思ってしまいます。
そして残念なことに無常の真理には反したその時に、私達の心に苦しみが
生じてまいります。
まさしく、無常のままに自分を転じていき、無常と一つになっていけば
何の煩いも苦しみもありません。
しかし、無常であると頭でわかっていても実際にそう見るのは非常に
難しいことであります。
例えば、この畳ですが、ある日突然にこのような茶色になったのでは
ありません。真新しい青い畳が一時一時、一瞬一瞬に細かな変化を
繰り返してこの色になったのであります。厳密に言えば、もう別物で
あるわけです。
また若い人が結婚をして相手がこんなはずじなかったとか、あの人は
こんな風じゃなかったと嘆きますが、これも、「相手がいつも同じ状態で
いてほしい」「自分の思ったままの状態でいてほしい」と思う自分の
わがままなものの見方であります。そのずれが迷いや苦しみを生むのです。
無常を受け入れたくないというのが私達の心の迷いの原因であります。
無常を見ることは大変難しいというのも事実であります。
それでも、無常が見えてくると無我という真理が見えてきます。
無我とはどんなものでも、そのものがそれ自体で存在をしていない、
つまり、あらゆるものは相かかわっている存在、相支え合っている
存在、それだけで独立しているものはないないということであります。
無常なるものが相関わり合いながら、相支え合いながら、お互い
影響を与え合いながら今の状態を保っているのです。
それが真理にもかかわらず、私達は「常に変わることない自分」
というものを探し求めて苦しんでいるのです。「いつまでも元気でいたい!
いつまでも若くいたい!」そう願っていてもいつかは無常を受け入れなければ
ならない時は必ず訪れるのです。
無常が真理であることは否定できない、これが正しいものの見方であります。