千の風になって
7月2日(月)その2
管長様が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
一時期、「千の風になって」という歌がはやりました。
それを聴いた人がお寺の和尚さんに「墓の中にいないのなら
どうして線香をあげるのか?」とたずねたり、また、
「千の風 聞いて買おうか 迷う墓」という川柳も詠まれました。
亡くなった方々がどこあるのか?と理論理屈を言ってしまったら
きりがありません。また、風になって世界を飛び回っていると
言われてそれで割り切れるものでもありません。そこのところを
うまく詠っている川柳があります。
「お帰りと 風を迎える 墓の前」
たとえ千の風となって世界を飛び回ってきても、今日は家族が
お墓参りに来てくれるからと帰って来てくれるという心を詠って
います。また、
「風鈴を ならすあなたは 千の風」
チリンチリンと風鈴がなっている。ああ!あの風鈴をならして
くれているのは、あなたであろうという俳句です。
こういう俳句等は、墓にあるのか、ないのか?という理論理屈を
越えているところであります。
「千の風になって」という平等一枚、無字三昧、天地一枚の世界は、
当然私達が体験すべきもので、私達のおおもとでありますが、
そればかりにとらわれてしまっては、これまた窮屈であります。
平等の体験をしたら、やはり、現実差別の世界に立ち戻り
お互い相手の言い分を聞き合い、譲り合い、分かち合い
ながら暮らしていく。平等と差別が交互に入り交じりながら
はたらいていくことが大切であります。